―今月の写真―
歌と市場のテレビっ子
〜中国貴州省羅甸県〜

写真・文章:梶丸 岳 *  
中国貴州省羅甸(ルオティエン)県。
貴州省の南の端に位置し、広西チワン族自治州に境を接している。
人口の過半数はプイ族をはじめとする少数民族1)であり、街中で飛び交う言葉の多くもプイ語などの少数民族の言語だ。ここでは「少数派」である漢族の話す中国語も、ずいぶんなまっている。

今日は5の付く日。羅甸では0と5の付く日に市場が開かれる。
そこでは野菜、漢方薬、お肉になった豚、生きたアヒルや犬、怪しげな時計、布、服、むぎわら帽子、本などが、大きな屋根の付いた広場からはみ出さんばかりに(いや、実際かなりはみ出して)並べられている。

だが決して客引きが激しいとかいうことはなく、ほとんどの人は雑談しながらのんびりとモノを売っている。中国でもっとも貧しい省のなかでも辺境にあるここの、基本的に温厚でのんびりした人々の性格が、市場の空気に流れている。
その雑踏の中を歩いていると、ふとスピーカーからのものらしき歌声が聴こえてくる。目を向けると、ちょっとした人だかりが出来ている。隣り合った2箇所でテレビとVCDプレーヤーを机に置いて流し、プイ山歌のVCDを売っているのだ。

流れてくる音は、単調な旋律の繰り返し。画面上に流れるのは、動きのない歌手と素人くさい影像。ディスクも明らかにCD-R(つまりコピー)だ。この手作り感あふれる(?)映像に、常にいれかわりたちかわり数人が熱心に見入っている。いや、聞き入っている。数時間居座っている人すらいる。その姿はまさに市場のテレビっ子である。

プイ族の伝統的な掛け合い歌であるプイ山歌はもっぱら祭日に、(地方にもよるがここでは)プイ語で歌われている。聞きなれた人間でないと歌詞は聞き取れない。そして、歌の真髄はその歌詞にこそある。

プイ語には「歌」という言葉はあるが「歌う」という言葉はない。「話す」と「歌う」は、彼らの言葉の中では同じである。会話で即興的言葉が重要であるように、プイ山歌には即興的歌詞が重要なのだ。

私たちが素朴に思い浮かべるような「音」を重視する「歌」とはちょっと違う、そんな歌を聞きながら、人々は笑ったり、お喋りしたりしている。カメラを向けても、1人くらい怪訝な顔をする人がいるくらいで、ほとんどの人は無視してテレビに見入っている。
私は写真を撮らせてもらったお礼も兼ねてVCDを買うことにした。

「これはどこの歌?」
「広西」
「これは?」
「羅甸だよ」

私は驚いた。なぜなら広西に住んでいるのは行政上チワン族で、別民族だからだ。言語も近いながら別ということになっている。VCDのタイトルだって「チワン族山歌」となっている。だが歌の旋律は同じ2)だし、みんな問題なく聞いている。

聞くと、広西北部のチワン族とここのプイ族はほとんどなんの違いもないらしい。この2つの民族は初期調査の不備と行政上の都合によって省境で民族の境界線が引かれており、学者の間では今でもこの線引きについて議論がある。

だが歌を聞く人はそんなことにはお構いなしだ。
お上がそう言うから別の民族なんだろうけど、同じ言葉と旋律で歌を歌い、同じ歌を楽しめればそれは仲間だ。そしてテレビとVCDが、祭日だけのものだった娯楽を日常のものに変えてくれる。それでいいじゃないか。この市場にはしかめつらしい民族と国家の問題も、近代化と伝統の問題も売っちゃいないよ。

そう言わんばかりに、市場の(やや年季の入った)テレビっ子たちは、今日も彼らの歌に聞き入っている。
1) 中国の国民(公民)は行政上56の民族に分けられている。そのうち人口の95%を占めている漢族を除いた55の民族が中国における「少数民族」である。

2) プイ山歌の旋律は比較的狭い地域ごとにほぼ一つしかなく、旋律が異なると歌詞が聞き取れなくなる。そして歌詞の聞き取れない歌にはみな興味を示さない。よって同じ旋律を用いて歌っていて、みんながそれを聞き取れるということは、広西北部と羅甸は、「プイ山歌」の流通という観点から見ると同じプイ語方言が使われているという以上に近しい関係にあるということである。
* 博士後期課程 
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