―今月の写真―
食卓の異文化 
〜中国新疆ウイグル自治区〜

写真・文章 熊谷瑞恵 * 
ナンという食べ物がある。
ウイグル族の食卓に、日々並べられている最も基本的な食べ物だ。

ウイグル族の友人宅に出向くと、たいていナンがテーブルに山になって置いてある。その山から一枚を取って割り、私達はお茶にする。そして茶椀は片付けても、ナンは置いたそのままだ。いつまで置きっぱなしになっているのだろう。

私が初めてその経過を確認したのは、たまたま友人宅に宿泊することになった日だった。ナンは、テーブルに置かれたそのままで夜を越していた。この食べ物には「食事の時間に、台所から、食卓へと持ってくる」という手順が存在していない…これもひとつの配膳方法であるといえるなら、私は“放置型”とでも命名しようか…、などと考えた。それがナンと私との出会いであった。

置きっぱなしになっている食べ物ナン。ナンが食卓に置きっぱなしになっているということは、家庭の食事を日本のゴハンなどと比べ、どのような面に違いをもたらしているのだろうか。

カロリーや調理法など様々に食べ物の研究方法があるなかで、私はこのような、食べ物の食卓での“意味”というテーマを選び研究をはじめた。

ナンにはナンをその内に含んださまざまな諺があった。
@「ナンはトヌール(tonur/かまど)が熱いうちに焼け」
A「雨の降るのは油のふるがごとし、雪の降るのはナンの降るがごとし」
B「セッレ(selle/礼拝時に頭に巻く布)が長くて信仰心がないのは、ダスティハン(dastixan/食事の際の敷布)が大きいのにナンが一個もないことと同じ」
@は、日本にもある諺、すなわち“鉄は熱いうちに打て”と同じ意味をあらわしている。
Aは、雨や雪の降ることをナンが降ってくるようだとたたえる諺であり、ここではナンが“恵み”の比喩として用いられていることがわかる。
Bは、“形式を整えて実がないのでは駄目だ”という意味を示している。ここではナンがウイグル族にとって、日々を送る実(じつ)として示されていることがわかる。

ナンは、このように、ウイグル族にとって身近にありかつ大事な日々の糧としてある。しかし、にもかかわらず、ウイグル語で「食べる」という動詞を使った場合、そこにナンを“食べる”ことは、含まれていなかったのである。

友人宅にて(以下の会話ウイグル語)
友人母「今日は何か食べたかい?」
私「朝はお茶とナンを食べたし、昼はお粥を飲みました
友人母「じゃあ今日はまだ何も食べてないんだね







訪問客(筆者)へのもてなし(カシュガル近郊ベシクラム村・子供は家の子供)


朝学校で友人に会ったとき
私「今朝何を食べてきた?」
友人「何も食べてきてないよ」
私「何も食べないまま学校に来たの?!」
友人「お茶を飲んできたよ」
私「お茶しか飲んでこなかったの?!!」
友人「“お茶を飲んできた”っていうのは“ナンを食べ”“お茶を飲んできた”って意味を言うんだよ!」

食事内容の聞き取り調査をしていた際
私「今日は食事をしましたか?」
友人母「今日は何も食べてないよ
(←ついさっきまでナンを食べお茶を飲んでいた)
ナンを“食べた”ことは、ウイグル語で「食べた」とは言われない。そしてそれは同時に「食事」という語でも語られず、食べてもまったく何も食べていないがごとく扱われている。

日本や中国、タイでは“ごはん(白米)を食べる”と言えば“食事をとる”ことと同義語とされている。ナンは、主要な穀物食品でありながら、「食べる」「食事」という言葉の意味においては日本のコメなどとは対象的な位置に置かれているのである。これでもナンは、ウイグル族のあいだの主要な穀物食品といえるのだろうか?




いつもの朝の「お茶」(アトシュ市内)

この理由は、家庭での食べかたの観察からみつけだすことができた。家庭の食卓でのナンは、日に何度でも、のどが渇けば、お茶に浸して食べられており、その食べかたは、ウイグル語で「お茶(chay)」を「飲む」と言われていた(2番目の会話参照)。

その回数は多く、数えると日に5〜7度にもおよんでいた。ゆえに、食事の内容的には、ナンは、日々の食事の中心をなしていたといえる。そして、ウイグル語の「食事(tamaq)」とは、調理をし、ナンを伴わずにとられるものを指している。その時間は特に決められておらず、その“食べられる”回数は、日に1度あるか無いか、という頻度であった。

この食事のありかたからは、ふたつのことを述べることができる。それは、まず、“放置されたナン”とは、日に何度も「お茶」を「飲む」ことによくあった配膳のしかたなのだ、ということ、ふたつめは、ウイグル家庭の食卓は、家族が日に決まった時間に集まり一定の量をとる食事ではなく、食べたい時に“お茶を飲む”という、ナンを、米とは異なった位置に配したことによる食卓なのだ、ということである。

私は今日もナンを食べながら「今日は何も食べてないんだよ」という友人の隣にいる。「なんだそりゃ??」に出会い、それを自分の手で解きほぐしていくとき、私は自分があたりまえだと思っていた感覚が、疑うにたるものであったことを知る。

話すこと、食べることを学び直す、という私の調査の過程は、私がもう1度生まれ直すことにも似て、「新しいこと」、それを「知らなかった自分」、その両方に向きあいながら私は「…こんな面白い脱皮、他人にさせといていられるか!」と思ったりするのである。

* 日本学術振興会特別研究員


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