―今月の写真― | ||
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モザイクの風景 〜 インドネシア・スマトラ 〜 |
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写真・文章 増田 和也* | ||
拓かれたばかりの大地を昼下がりの陽射しが乾かしていく。アブラヤシの苗が整然と植えられたなかを老人が進みゆく。彼が向かう先は大農園のなかの「森」だ。 インドネシア、スマトラ島リアウ州。その一帯は、広大な低湿地と深い熱帯多雨林のために、長らく開発から取り残されてきた地域である。そのなかで森と深く結びついて暮らしてきたのが、プタランガン(Petalangan)とよばれる人々である。今日、プタランガンの村々の周囲には見渡す限りにアブラヤシ大農園が広がっている。これは政府の開発政策のもとで造成されてきたものである。村びとが利用されてきた森は、新たな土地制度のもとで国有地に編入され、やがては開発事業の対象地として接収されてきた。けれども、彼らは必ずしも政府のなすままに開発を受け入れてきたわけではない。 当時のことを村びとに尋ねてみた。1980年代後半にアブラヤシ大農園の開発計画が村に伝えられると、村びとは寄合いの末にこれを拒否することにした。それは、開発により森が消失することに加え、大農園労働者として移民が入ってくること、そもそも、アブラヤシとはどのような作物なのかわからないということが理由であった。アブラヤシは西アフリカの原産である。しかし、こうした村びとの拒否にも関わらず、大農園開発は強行された。 あるとき、村びとの一部は何日間も大農園拡張の工事現場に通い、これを阻止した。そうして開発用地の一部には森が残された。つぎに、村びとは残された森に火を放ち、焼畑を拓いた。彼らは、一連の行動を通じて、一帯の森が代々利用してきた土地であることを示したのだった。こうして、開発用地の中には「森」が大洋の島嶼のようにぽつりぽつりと浮かぶ。 |
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<写真2:アブラヤシ大農園内の「森」を拓いた焼畑> |
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とはいうものの、村びとたちは残された森を昔ながらに維持しようとしているのでもない。焼畑からの帰り道、ある男性は大農園用地内の薮の中に立つ一本の木を指差しながら、「あのジェンコール(植物名)の木は俺が植えたものだ」と私に言い、次のように話してくれた。彼はかつてその一帯で焼畑を拓いたことがあること、その中に出づくり小屋を建て、播種から収穫までの期間を家族とともに暮らしたこと、その出づくり小屋の脇に植えたのがあのジェンコールの木であること、そして、いつかそこを拓いてアブラヤシを植えようと思っていること。 | ||
![]() <写真3:焼畑の出づくり小屋> |
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近年、アブラヤシの需要が伸びるなか、残された土地を小規模ながらもアブラヤシ園に転換しようとする村びとは多い。開発用地は大農園企業が政府からの認可のもとで取得したものであり、法制度上、その内に残された土地の権利は大農園企業にあり、村びとにはない。しかし、村びとは自分が過去に森を拓き利用した土地を記憶している。そして、それを拠りどころに村びとの間で有効な「土地権」を主張し、ときにはそれが村びと間で売買されていることすらある。 開発は、「近代化」や「経済発展」といった目標のもと、中央政府によって策定された事業が一元的に展開される。そして、近代的な土地制度は空間を均質で代替可能なものとみなし、開発はそれにしたがいながら圧倒的な力のもとで実施される。一方、村びとは、政府による政策や制度といった大きな枠組みにほころびをつくり、そこから抜け出るかたちで土地とのつながりを持続しようとしている。こうして、開発を「する側」と「される側」の思惑と意識のずれは、当初の開発計画からは予想もしない新たな状況を生み出していく。整然と区切られた大農園、そのなかに残された森とそこに拓かれた焼畑、そして住民が植えたアブラヤシ。モザイクの風景はそうした状況を示している。 |
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![]() <写真4:薪集めの帰り道。今では道脇の土地にもアブラヤシが並ぶ> |
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* 京都大学 生存基盤科学研究ユニット 東南アジア研究所 特任研究員 (H19年度博士後期課程研究指導認定退学) |
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