―今月の写真―

イタリア中部 シビッリーニ山

                                   写真・文章 松嶋 健 *     

その羊飼いの名はフランチェスコと言った。驚いた。だがここはかつて聖フランチェスコが放浪したウンブリアとマルケの州境だ、フランチェスコの名を持つ男はざらにいよう。

1960年代の末から70年代にかけて、谷泰が牧夫フランチェスコと共に過ごしたグラン・サッソ山はイタリア中部アブルッツォ州にあり、そのままアペニン山脈を北上すると、ウンブリア、マルケ、ラツィオの三州にまたがるシビッリーニ山系に至る。

シビッリーニの名は、キリスト教以前の古代ローマ時代、シビッラ(女予言者)がこの山の洞窟にいたという伝説に由来する。古くからこの地は魔術師たちの聖地であり、他にも様々な言い伝えがあるが、なかでも興味を惹くのは、山上近くにあるピラート湖にまつわる伝説であろう。眼鏡のかたちをしたこの濃緑色の湖の水には魔法がかけられており、そこでは悪魔たちが魚に変身して泳いでいるという。

湖の名の由来となった伝説はこうである。イエスの処刑を許可したピラト総督はローマで死刑に処せられるが、その際、自分の遺体を牛車にのせ、そのまま牛車のおもむくままにまかせてくれと皇帝に願い出て聞き入れられる。ピラトの遺体をのせた車をひく二頭の水牛は、嶮しいシビッリーニ山にまで到ると、遺体ごと湖のなかに飛び込んだという。

イタリア半島には、善なるものであれ悪のそれであれ、大地が特別な力を持つと現在でも見なされている場所がいくつか存在する。そのひとつがここシビッリーニであり、もうひとつが聖フランチェスコの眠るカトリックの聖地アッシジを擁するスバシオ山である。

かつてフランチェスコは、スバシオからシビッリーニにまたがるウンブリアの自然をこよなく愛した。たしかにここの自然には、人間の精神を地平の彼方に誘いだす独特の拡がりがある。その呼びかけに従って、裕福な商人の息子だったフランチェスコは
貧しくあることこそ神の道であると確信し、粗末な服ひとつで生涯を説教の旅に生きたのである。


「貧しき者は幸いなり。」フランチェスコは単に物質的な豊かさのみならず、精神的・知的な豊かさをも認めなかった。彼は言う。

「知識が豊かになって何になろうか。心貧しいことこそ神の御心に沿うのだ。修道士に学問は要らない、書物も要らない。説教の時は自分の言葉と歌を使えばよい。学問好きで理屈っぽい修道士は、いざという時になす術を知らぬものだ。」

物質的な富も、精神的な富も否定し、あらゆる意味における所有をうち捨てて、精神の脱領土化への運動に忠実であれといざなうフランチェスコの言葉は、現代においてどのように受け止められるだろうか。

そういえばどこかで、プーリア州の羊飼いが貨幣というものを知らなかったという記事を読んだことがある。ちょうど四十年ほど前のことである。貨幣というものが、多様な脱領土化の流れをただひとつのレベルに還元表象しているとするなら、羊飼いが生きているのはもっと多数的な脱領土化の流れそのものである。

牧夫フランチェスコが四十年前に羊の放牧をしていたグラン・サッソの地底
4000mのところには、その後、世界最大級のニュートリノ観測所としてグラン・サッソ地下研究所がつくられた。第二次大戦後の都市化の波は、牧畜にたずさわっていたほとんどの人びとに、ローマをはじめとする都市への移住を余儀なくさせ、現在では、多くの場合、羊群は大規模所有となり、牧夫は雇われ羊飼いで、その大部分がアルバニア人、マケドニア人、ルーマニア人である。

そこには、かつてイタリアから北へ北へと向かった移民の波とは逆方向の、世界規模での脱領土化が生み出す移民のドラマが横たわっている。

だがそんな時代の大きなうねりなどなかったかのごとく、フランチェスコは今日もまた、シビッリーニで羊を追う。牧羊犬のアブルッツェーゼを連れ、昔ながらの羊飼いの七つ道具をたずさえて。

* 博士後期課程
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