1 視点
ここで報告するのは報告者が、1996年秋から始めた在日米軍の文化人類学的調査の一部である。この調査のねらいは、ほとんど無視されてきた米軍基地の生活世界を明らかにし、従来の在日米軍に対する視点(正確には視点そのものの欠如という状況)を修正しようというところにある。本報告では米軍関係者の宗教生活のなかでもとくに聖職者の地位を占めるチャプレンに焦点を絞る。チャプレンの活動の特殊性は軍隊の性格を明らかにするであろうし、またチャプレン制度(チャプレンシー)は、米国における政教分離のあり方を考察するにあたって示唆に富むものである。最後に本報告では扱わないが、米軍の宗教施設にはさまざまな形で基地周辺や基地で働く日本人たちが参加している。わたしはある礼拝で若い日本人のミュージシャンが熱心に祈っているのを見て心打たれたことがあるが、米軍基地のキリスト教が日本人の宗教意識に与えた影響についても考えていく必要がある。
2 在日米軍(詳しくはこちら)
在日米軍は正式には米国太平洋軍の一部であり、規模は全体で43000人、その関係者をあわせるとおよそ11万人住んでいる。さて、本報告のテーマとなったチャプレン(従軍牧師・司祭)であるが、5名のチャプレンから詳しい話を聞くことができた。またいくつかの行事に参加した。チャプレンのうち一人はカトリック、4人がプロテスタントで、うち一人はアフリカ系アメリカ人(African Methodist Episcopal Church所属)であった。参加した行事は国際結婚セミナー(リトリート)、日曜の礼拝、土曜のインフォーマルな礼拝などである。
3 チャプレン制度の由来と歴史
チャプレンについてはつぎのような伝説が残されている。
4世紀の兵士、彼はある冬の夜寒さでふるえている乞食に出会った。かれは外套を脱いでそれを剣で半分にさいて、半分を乞食に与えた。その夜彼はキリストが自分の外套を着ている夢を見る。この体験がきっかけで彼は洗礼を受けキリスト教徒になった。後には軍隊を離れて教会に身を捧げることになる。そのうち、彼は中世のフランク王国の王たちの守護聖人となった。彼の外套(cappa)は神の現前を示す旗として戦いで使用された。しかし、この外套は教会の聖なる遺物であるから、これに司祭が管理人として同伴した。外套を保管する司祭がchappelanusとなった。彼はまた王たちに礼拝を行った。ここにチャプレンという言葉(capellani, chaplain)が由来し、外套の安置場所(capella)からチャペルという言葉が生まれた。
すでにここに軍隊とチャプレンとの関係が明らかになっている。チャプレンは教会に属しているが、しかし、同時に軍隊(王)に仕えるのである。
合衆国の軍隊の歴史に限ると、北米では17世紀から民兵に聖職者が参加、ともに闘うということが生じていた。
1775年、独立戦争勃発の年に正式にチャプレンが正式に認可された。これが合衆国でのチャプレン制度(chaplaincy)の起源とされ、軍から給料を受け取る。
1861年に南北戦争が起こる。この戦争をきっかけにユダヤ教徒のチャプレンが生まれた。またAfrican Methodist
Episcopal Churchに属していた黒人とチェロキーの首長の息子先住民出身のチャプレンが誕生した(1863年)。
1920年にはチャプレンを部隊毎にまとめるChief of Chaplainsが設立する。ちなみに彼は大佐の階級を与えられていた。同年チャプレンを養成する学校が設立された。
第二次世界大戦中は、白人のチャプレン(カトリックとプロテスタント)、黒人チャプレン250,ラビ311名、他にギリシャ正教会のチャプレンがいた。日系部隊に仏教徒のチャプレンを派遣することが認められたが、しかし実際には仏教徒のチャプレンの代わりに日系キリストのチャプレンが任命されている。女性のチャプレンはまだ実現しなかったがチャプレン・アシスタントになる女性が増えた。
ベトナム戦争批判とともにチャプレン(制度)への批判も高まる。宗教団体の中にもこれを批判するものがあらわれた。戦争屋warmongerと呼ばれる。
1974に最初の女性チャプレンが誕生した。
チャプレンの歴史はまず、その専門化の歴史であり、その資格認定に当たってチャプレン候補者の所属する教会の推薦が必要となった。また学士から修士へとその教育資格も高くなった。もうひとつ注目すべきことは、チャプレンの歴史が、そのまま米国がマイノリティー集団の軍への参入を認めていく歴史として読めることである。それは、限界はあるが、さまざまなエスニック集団、宗教信者から成る軍隊の要求に応えていこうとする歴史でもあった。
4 チャプレンの活動
各部隊(陸海空軍)にチャプレンの属する部隊(Chaplain Branch, Chaplain Corps, Chaplain
Service)があり、軍と同じ階級がある。ちなみにチャプレンは皆士官で、チャプレン・アシスタントは下士官である。海兵隊には海軍に属するチャプレンが派遣されている。基地のチャプレンの数や教派は基地の規模や宗教人口の割合で機械的に決められる。海軍の場合艦上勤務のチャプレンもいる。この場合は艦船の規模によって人数が決まる。
基地でのチャプレンの活動の場所は礼拝堂(chapel)であり、そのオフィスもチャペルに付随している。基地にはすくなくとも一つ礼拝堂があり、その施設をキリスト教各派、ユダヤ、イスラーム、バハイなどが利用する。アフリカ系アメリカ人、韓国人、フィリッピーノなどのエスニック集団に応じて礼拝が行われることもある。キリスト教はさまざまな教派からなり、またチャプレンたちも特定の教派に属するが、チャペルでの儀礼は大きくカトリック、プロテスタント、ルーテル派などに分かれているにすぎない。さらにゴスペルを中心とするアフリカ系アメリカ人の礼拝や福音派系の礼拝も定期的に行われている(横須賀)。極端な例としては白人のチャプレンがゴスペル系の礼拝をする(横須賀)ということもある。
定期的な礼拝に加えて、年に数回のリトリート(黙想)という制度がある。これは1950年代に生まれた。リトリートはチャプレンのもと祈りや瞑想、学習、教育のためにおこなう一時的な集団の隠遁リトリートである。具体的には2泊3日の合宿形式で、用意されたプログラムに沿って国際結婚などの共通テーマを討論して、理解を深める。そのプログラムはキリスト教の教えと密接に関係しているが、たんなる宗教的な教育というよりはもう少し一般的であると言える。ほかにモラル、禁酒、反ドラッグ、ダイエットなどのトピックが取りあげられている。
基地でチャプレンが対象とする人々はさまざまな信仰をもつ。日曜日だけ教会にやって来る人々と接していればいいというわけにはいかない。また、彼が毎日つきあう同僚たちも異なる宗派・宗教に属す。彼らとつきあい、彼らの行う諸儀式を観察する機会もあろう。これもまた一般社会では体験することのできない状況である。このような状況はいうまでもなく米国社会の多様性diversityを反映しているが、より密で、より集約的な性格のものである。このような状況とそれに対処するチャプレンの性格は本質的にecumanicalなものといって良いだろう。
基地においてはそうでもないが、戦場でチャプレンはいろんなことがらをこなさなければならない。もちろん立派なチャペルなどない。日々の定期的な礼拝や説教、また病人や傷痍兵を見舞い、死者(死に行くもの)を弔う。チャプレンの戦場での死亡率が高いのは死者を看取るということが重要な仕事だからである。とくに大事なことはカウンセリングで、そのテーマの第一は別離の問題である。これもまた軍隊的状況を的確に反映していると言えよう。第二次世界大戦ではTell
it to the chaplainが合い言葉になっていた、というし、また 1942年の調査では平均一日53件のカウンセリングをチャプレンがしていたという。この意味でチャプレンの活動には聖と俗という区分が弱いといえよう。あるチャプレンがいみじくも述べたように、かれらはGeneral
Practitioner(専門にこだわらない一般開業医)なのである。
さらにチャプレンは軍隊という階級社会においてもその身分制度にかならずしも忠実ではない。とくに宗教的な事柄については部隊の指揮官の命令に従う必要はない。彼は他の軍人と異なって階級で呼ばれないで、たんにチャプレンとかファーザー、パスターと呼ばれる。軍隊では士官と下士官、兵との区別は絶対的で日常的なつきあいも禁じられているが、士官であるチャプレンにはこの規則が適応されない。
教派や宗教を横断し、聖と俗の区別に対しても厳密ではなく、さらに軍隊のヒエラルキーからも自由であるというチャプレンの性格を一言でいえば、彼は軍隊において「反構造的な」(ターナー)位置にある、といえよう。それは彼らのいう「階級や人種、宗教に関係なくみんなに開かれている(オープン)べきであり、またそうでないとチャプレンはつとまらないという言葉に端的に表れている。その反構造的位置を保証しているのが、軍人でありながら、自ら属する教会と神への絶対的服従という二重構造である。しかし、彼の反構造的性格はあくまで軍隊の中での相対的なものにすぎない。つまり制度的な二重性がかれらのユニークな位置を生みだしているのである。そういう意味でそもそも反構造という概念そのものが、チャプレンについては適切とは言えないかもしれない。戦場において彼は軍隊の外に位置することはできない。いくら彼がより多くの敵を殺すことを兵士に対して祈るのではなく、兵士の安全を祈るだけだ、われわれは聖職者として平和主義者である、と主張しても、敵には理解されまい。つまり国境が宗教に優るのである。ベトナム戦争ではチャプレンがねらわれ、本来禁止されている武器を携帯せねばならなかった。この限界こそ、チャプレンが敵の攻撃対象となったり、一般社会から批判される根拠といえよう。
参考文献
The Churches and the Chaplaincy by Richard G. Hutchenson, Jr. 1975. Atlanta: John Knox Press (Navy)
History of Army Chaplaincy (United States Army Chaplain Center and School) compiled by Wlliam J. Hourihan.