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人文科学研究所所報「人文」第四八号 2001年3月31日発行

人 文 研 の “た か ら も の”


田中峰雄文庫

――中世フランス大学史関係文献――

小山 哲

 かつて本研究所の助手をつとめられた故田中峰雄氏の蔵書の寄贈を受けて四年ほど前につくられた,比較的新しい文庫である。中世フランスの大学史を中心に,ヨーロッパ中世史にかんする洋書七九三タイトル,九四七冊からなる。

 人文研のヨーロッパ関係の蔵書の重要な柱のひとつはフランス書であるが,まとまったコレクションとしては,これまで「サン = シモン,フーリエ文庫」,桑原武夫・河野健二両氏の旧蔵書など,近代以降にかんする文献がその中心を占めてきた。その意味では,「田中峰雄文庫」が加わることによって,本研究所のフランス関係の蔵書は,対象とする時代の幅を大きく広げたことになる。

 「十二世紀ルネサンス」を代表する思想家のひとり,ソールズベリのヨハネスの研究からはじまって,一九八三年に社会科学高等研究院に提出された中世パリ大学にかんする学位論文 La nation anglo-allemande de l'Universite´ de Paris a` la fin du Moyen Age(一九九〇年刊)にいたるまで,田中峰雄氏の関心は一貫して中世ヨーロッパにおける「知」の世界に向けられてきた。とくに史料の緻密な読解と操作にもとづいたパリ大学史の研究は,ジャック・ル・ゴフをはじめとするフランスの中世史家たちに高く評価された。その成果は,一九九三年に氏が不慮の事故で早世されたのちに編まれた論文集『知の運動』(ミネルヴァ書房,一九九五年刊)にも盛り込まれている。田中文庫には,これらの研究の土台となった刊行史料や研究書が数多く含まれている。現在,田中文庫の本は分類番号順に他の書籍のなかに混ぜて配架されているが,その全容は目録によってつかむことができる。


 中世パリ大学の学生生活から。上段:朝夕の祈り。下段:貧しい人びとにパンとスープをふるまう。
出典:La vie universitaire parisienne au XIIIe siècle, Paris 1974(田中峰雄文庫所蔵)

 利用する側からみて,個人の名を冠した文庫に期待するものはなんだろうか。ひとつは,その研究者の専門分野にかんする文献をまとまった形でみることができる,ということであろう。基礎的な史料や古典的な研究書が揃っているのだから,同じ分野を研究しようとする者にとってはありがたいことである。もっとも,あまり収集が完璧だと,利用者はその文庫の枠にとらわれてしまい,かえって独自の道を切り拓くのに苦労するかもしれない(これは,近世ポーランド史を専門とする――したがって田中文庫のような先学の充実した蔵書の恩恵に与ることはほとんど期待できない――筆者の,多分にやっかみも混じった想像である)。

 もうひとつ,個人が残したコレクションの魅力は,そのひとの研究の舞台裏や書物との接し方を垣間見ることができることであろう。田中文庫の大学史関係の本にはところどころ鉛筆による下線や欄外の書き込みがあり,故人の勉強の跡をたどることができる。本の裏表紙には購入した書店の名と日付が記されていて,持ち主と書物との出会いの風景が思い浮かぶようである。

 田中文庫が対象とする中世ヨーロッパの「知」の世界は,一見,私たちの日常からは遠いようにもみえる。しかし,今日の大学教育のシステムに不可欠の「学位」や「カリキュラム」は,十二世紀から十三世紀にかけて,ヨーロッパの大学で成立したのである。目下,市場の論理に直面して揺れている大学という制度の原点を見つめ直すためにも,故人が遺した研究成果と蔵書は,私たちにとってたいせつな“たからもの”である。