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報告書 紀要 所報 (第四九号 2002)
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人文研の“たからもの“


北白川の収蔵庫

桑山 正進

 

人文研の“たからもの”という項を所報人文にもうけるにつき,研究所になにか「おたから」がないものか, あったらそれについてなにか書いてほしいと聞いて,人文研のいわゆる宝ものは有形無形いくらでもありそうなのに, わたしごときへの御下問といえば,なにか古代ものでも,写真か図で示しつつ,解説様のものをつければ事足りるの だろうとおもって気軽にひきうけたら,一〇枚か一五枚という大層な「おたから」解説だとわかって,いささか困惑で あるが,研究所の人間ならだれでもが,世界広しといえどもわれわれしかもっていないものを享受し,はたまた安住 していることぐらいだれでもしっているのだから,あまりみんながしらないもので,しらないから,こんなもの,というこ とで,なにかの折にうっちゃられてはこまる,そんなものを書くことにした。

 北白川館東側の収蔵庫はいまはきれいになっているが,昔占領軍の車庫としてつくられた木造平屋であった。軍が 去ったあと研究所の公用車の車庫になっていた。半分が中国やイラン,アフガニスタン,パキスタンで採集してきた 土器などの遺物や,壹岐や唐津の弥生土器がわんさとあり,一部整理室にもあって,夏はすばらしく暑いとこだったが, その後センターができてからは,一部を仕切ってゼロックス室なるものを設け,閲覧者のコピー注文をこなしていた。 七〇年代のはじめであった。助教授でもどった八〇年になると,書庫からあふれた書物の收納が問題になっていた。 收蔵庫を二階建に建て替える話が本決まりになり,結局二階建ては平屋積層書架に縮小されたが,新建築だから, 事前の発掘調査なるものをやらされ,考古学史で名高い北白川式土器を出す縄文遺跡に近いので,あるいは出てくる かもというわけで,埋文センターからも期待の声があったりした。ところが,出てきたのは何やら時代不明の遺構めいた ものだけだったが,その場所を避けて建つべしと献策したから少し南寄せの設計となり,歴史の部屋には迷惑,考古に は叡山の眺望を依然吾がものにできる按配となった。

 さて,新收蔵庫にはセンターの書物のあふれた分を收蔵することのほかに,前の建物にいれてあった考古遺物を 当然再び容れたが,当初はどこにどれだけのものをどう,というように,本と遺物とがわりに整然とテリトリーを保って 配置された。大規模な海外現地発掘などしにくくなった時勢もあり,次第に年がたっても,考古遺物はふえない。だが 書物は際限なく確実にふえつづける。久しぶりに收蔵庫へ入ると本を置いた棚がいつの間にか増殖して考古テリトリー を侵蝕していたりしている。増えつづける本の收納についてどうするかといった所内談義になると,必ず出てくるのが, 「あそこに積んである土器は使っていないようだから,いらないならどこどこへ押し込んだらどうか」などという,物騒な 意見もでる。ドロのついた汚い考古遺物は,書物とは性格が異なっているが,立派な歴史の資料である。直接人間が 作ったものなのだから,まぎれもない直接資料であり,本などの記録のように書いてあることを疑ってかかる心配すら ない,素直な資料である。どうも書物は重要でも,考古遺物はどうでもよいといった意識が,書物に依存する方々には おありのようだ。書物はきれいで高尚。土器なんてどうでもいいやないかでは困る。いま北白川の建物自体が修繕され 地下室がうまく使えるようになったので,この手の話しは最近こそ聞かないが,そのうちまた出てくるだろうから,そんな ときのために,このような場を借りないと喋るようなところもないので,いい機会だから書いているのである。

 それで,あそこには中国関係の考古遺物ももちろんあるわけだが,圧倒的に多いのは,いまいったような土器の類, アフガニスタンやパキスタンの出土品で,ガンダーラのレリーフとトハーリスターンの土器,それにイランからアフガニ スタン,パキスタンの広範な地域をカヴァーする遺跡の表面採集遺物,といっても土器・陶器の類がほとんどであるが, 先史土器片からイスラム陶器片まであり,延べ人数でいえば,何十人という人がこういった地域を隈無く歩き回って集め た遺物である。今後,どうであろうか,そんな大規模な調査がどこの国ででもできるという時代がやってくるとも直ぐには おもえない。イランだっていまや国内どこへでも勝手に歩き回れる世の中ではなく,アフガニスタンもやっといま小康状態 になっただけで,何時何時ひっくりかえるかわからない。いまの状況が将来確実に存続し,七〇年代以前のアフガニス タンが再来するなど私にはまだとても信じられない。たとえこの国土に再び立てたとしても,考古調査を以前のようにでき るのは,それこそ地雷全部がなくなるまではできない相談である。そうなるとわれわれが持っている遺物は土器のかけら だからといって見捨てるなんてことは,とてもできない。

 一九五九年から一九六五年までの六年間,もう四〇年も前の現地調査だが,俗にイアパといわれた水野清一の学術 調査隊は,パキスタンでは一九五九年,アフガニスタンでは一九六三年から発掘をおこなった。パキスタンの発掘はガン ダーラの中心,ワルシャプラの北でおこなわれた。フシェが昔ヴェッサンタラジャータカにまつわる古寺故宮に比定した 遺跡があるところで,チャナカデリーという低平な遺跡は,宋雲行記に出ている寺だろうとみて発掘したものの,壯大な 王宮のような遺構が出て,発掘は正に土木工事の様相を呈し,かけた時間に比して成果はすくない。もうひとつはメハ サンダ(水牛のメスとオス)と呼ぶ寺跡が山の中腹にあって,一九六一年から一九六四年まで発掘,そしてもうひとつ, ガンダーラの平野の北の障壁の南麓にあるタレーリという寺跡が一九六四年,一九六七年の二回発掘された。いずれも ガンダーラの佛教寺院で,少しずつ形式を異にし,メハサンダではストゥッコの彫刻,タレーリでは片岩製の彫刻が圧倒的 に多く使われた寺であった。北のスワートのイタリアの発掘とともにガンダーラの寺跡の科学的な発掘としては英領インド 時代以來はじめてのもので,ガンダーラの佛教を專門に研究するものがその寺院がいかにつくられていたか,その外形 がいかようのものであったか,その莊厳はといった諸點に,直接觸れて研究することができたことは,おおきな意味が あった。そんな水野調査隊の最終ラウンド一九六七年に,それまでの出土品を協定に従ってパキスタン考古局と調査隊 とで分割することになった。タレーリの石の彫刻はAからEまでに分類され,AからDまでがみんなパキスタン側,Eだけ が京大側の所有となった。Eだけとはなさけない? と思うなかれ。よく考えてみれば,正式に発掘した遺物を両国で分割 して所有するなんてことは,このあたりでは戦前,フランスが掘ったベグラームの遺物をギメとアフガニスタンが分割した ことくらいしか,知らないことであり,今日,好事家の垂涎の的であるガンダーラ美術の国外流出に神経を尖らせている パキスタンを考えると,まことに不思議である。だからE級品とはいえ,贋物の横行するなかでそれは宝物なのであり, 考古学徒にとっては土器とともに計り知れない大事なものである。

 純粹な書齋派にとって遺物は価値がないものかもしれない。汚いという先入見もあるだろうが,泥の中から出てきて泥 だらけということは,衣帯の知れない綺麗なものより,磨きがいがある。文書は後世の僞作が心配だが,発掘品に僞物は ない。収蔵庫の「異物」を大事にしてください。


人文科学研究所所報「人文」第四九号 2002年3月31日発行