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イヤル・ベン=アリ 安承俊


人文科学研究所所報「人文」第五三号 2006年6月30日発行

随  想


(私の)名前、日本の就学前教育と子供の力

イヤル・ベン=アリ     

 過去二十年間、私は京都の中心に位置する保育園の調査を行ってきた。一九八八年と一九九四年の夏に桂保育園のフィールドワークを行い、さらに再び二○○五年九月と二○○六年二月に京都大学の近くにある朱い実保育園で調査を行った。私は、ここで前者での経験に戻ってみたいと思う。というのも、そこで私は、子供、特に日本の子供の力についてあることを学んだからである。

 私の名前はつねに問題を引き起こした。五十年ほど前、私の両親はイスラエルに移住し、私が一年後に生まれたときに、両親は私に近代的なヘブライ語の名前をつけることに決めた。イヤルとは、「力」というような意味を持ち、一方でベン=アリとは「ライオンの息子」という意味を持つ。私の名前は、伝統を生み出しその存在を守ろうとしている新しい国で育つ子供には、確かにぴったりの名前である。しかし、世界を旅し、ヘブライ語以外の言語で話す人々と接触する者にとっては、好都合な名前とはいいがたい。

 一九八八年にフィールドワークを行ったときに、私の日本人の友人は、私がベンアリと名乗ることで、ものごとをより簡単にするようにと親切にも勧めてくれた。そこで、桂保育園では、私はベンアリ先生、ベン先生、あるいはアリ先生として知られるようになった。これが、私の名前がこうむった変形の始まりだった。この変形の始まりは私の身体のサイズに関わっていた。私の身体的サイズは、控えめに言っても日本の保育園教員の平均よりひとまわりかふたまわり大きかった(私は身長一九○センチ、体重一○○キロ以上の重さで、脳と筋肉、それから、そう、脂肪からなる体格をしている)。私が到着して一週間か二週間後、ひとりの三歳の男の子が私の隣に立った。彼は私を見上げて、眼を輝かせながら、次のようなことを言った。

 アリは蟻、蟻は小さな生き物。それなのに、どうやったらこんなに大きな先生が、蟻のように小さなものの先生になれるんだろう。どうやって蟻の先生になったの?

 後に、子供たちが私になじむにつれて、子供たちは私の名前の「ベン」でふざけるようになった。私は子供たちに「勉強の先生」と呼ばれたり、「お弁当の先生」と呼ばれるのはちっとも構わなかった。が、もちろん、「ベン」の一番はっきりした連想は、(そのときは予想していなかったのだが)、トイレと排出物だった。私はすぐに「便所の先生」というあだ名をつけられた。あたかもこれだけでは不十分だったかのように、時々私は「うんちの先生」、「うんこの先生」と呼ばれたし、「おしっこの先生」とまでも呼ばれた。しかし、それからさらなる展開が生じた。同僚の先生と一緒にいると、子供たちが私たちの傍を通り抜け、私の「名前」のひとつをささやくということがしばしば生じたのである。私の隣に立っていた先生は、幾分戸惑った沈黙を持って微笑み、それから子供たちはその効果に満足して走り去るのであった。

 私はこれらのエピソードがすごくおもしろいことに気付き、その意味を自問した。これらは私自身についての問題ではなかった。というのは、私はあまりマッチョではなく、そのような名前を気にしなかったからである。むしろこうしたからかいが、保育園について何かを私に教えてくれるということに気付いた。

 まず最初に私がしたことは、このような行為と似た他の事例をフィールドノートの中から見つけることであった。最初に私が見つけたのは、大人を「おかしな」あるいは「かわいい」とみなすであろうエピソードであった。たとえば、プールに入っていた小さな女の子が水の入ったコップをもって、「男はビール」というテレビコマーシャルのマネを真剣にしたという事例。

 しかし私は、名前についてのからかいは異なった種類の行為と似ていると感じた。それは例えば、昼食中、箸を飛行機に見立てたり、ビスケットを自動車に見立てたりすることである。別の事例をあげよう。一日の最後に四歳児の子供たちが帰りの支度をしている時に、先生が弾く小さなオルガンの伴奏にあわせて、みんなが「さよなら」というよく知られた歌を歌い始めた。歌の半分あたりのところで、三、四人の子供たちが、音程をはずして、歌詞を過度に強調しながら歌い始めた。仲間たちからいくぶん賞賛の反応を受けて、子供たちは数分間「わざとらしくおおげさに」続けた。他の機会では、六歳の女の子が床を掃いているときに、その子の進む方向に先生と私が立っているのを見つけた。その子は私たちの足を掃いて、言った。「あれ、ここに大型ごみがある!」

 最後に紹介したいのは、先生の「自己」と遊ぶことを伴う行為である。それは、先生の服をひっぱったり、エプロンの後のひもをほどいたり、トイレにまで先生の後をついて行って、「おしっこ、おしっこ」と叫んだり、先生の後ろに座って「お尻見はった」と言うことである。

 このような行為は、明らかに想像力に富んではいるが、しかしそれは絵画、ダンス、語り聞かせのような、創造性を育てるためにデザインされた形式的な教科過程の意味においてではない。むしろ、このような創造的な行為は、他の行為に伴って現れてくるように見える。そのような行為は、先生たちからは厄介なこととみなされたり、少なくとも、そのような行為が現れる状況のなかでは重要でないこととみなされたりしがちである。しかし、子供たちの自立のひとつの側面は、大人たちの世界に挑戦することである。子供たちの知識は、大人たちが「明白な」あるいは「誰にでも知られている」と主張することとはしばしば矛盾する。このために、子供たちはつねに政治的な問題である。もし私たちがこの点を理解するなら、社会化とは一般に想像されているよりもはるかに不確定な過程なのだということを正しく評価するだろう。社会化とは、助け、導き、保育するといった一方向的な関係にあるのではなく、むしろ、そこに参加する者たちとの双方向的な過程、ときに葛藤関係にある過程である。現代日本の初期教育についての多くの西洋の研究との関係で言えば、これらの点は、特に重要である。

 名前に関わるからかいやそれと関係する行為は、目的指向の活動や、先生や専門家のつくった行動計画には反するものとして位置する。おおげさに歌を歌うことや、おにぎりを爆弾に見立てることは、明らかに決められたルールや約束ごとに反対して行われる事例である。子供についての多くの学術研究の問題は、子供とは比較的受け身で、未熟で、依存しているという仮説から未だに出発していることである。子供たちを、彼らが生きている状況に対して、少なくとも抵抗したり変化を加えたりするような力をもつ政治的アクターとして扱うことは有益であるということを私は示唆したい。このようなモデルは、取引すること、連立を築くこと、弱者の力、集合的なゴール、党派を作ること、指導力の実践を下稽古することを、子供に関わる問題として検討することを助けてくれるであろう。

 私が観察した批評、皮肉、卑猥さ、からかいは、日本の子供についてのある種の(おそらく西洋の)学術的概念を侵犯するだろうが、そのまったくの偏在性とダイナミズムは、子供たちが人生と関わっている方法のまさに中心に位置しているということを強調している。人類学の視点から見ると、先生や教育者たち(そして彼らが依拠している「熟達者」たちのほとんどは)、仕事でないもの、本当でないもの、まじめでないもの、生産的でないもの、貢献しないもの、といった――でないもの、という言葉で、それらの遊びに満ちた行為を捉えがちである。対照的に、私の議論では、就学前の経験として、このような気紛れで探求的な行為を、形式的な組織化されたヒエラルキー、分業、カリキュラムなどと同じくらい重要なものとして捉えるべきなのである。これらの行為は、子供の創造的で探求的な性質を強調しているのである。

翻訳 田中雅一・金谷美和

韓国の古文書と女性の地位 安 承 俊
金文京・李昇火華