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人文科学研究所所報「人文」第四六号 1999年11月18日発行 | ||||||
(資料紹介)小島祐馬旧蔵「対支文化事業」関係文書 |
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解 説 |
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松 田 清 |
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京都大学人文科学研究所はその淵源である東方文化学院京都研究所の創立(一九二九年)から数えて七〇周年を迎えた。東方文化学院は「庚子賠款」すなわち,一九〇〇(明治三三)年の義和団事件によって日本が得た賠償金を主な財源とする「対支文化事業特別会計」によってまかなわれる外務省管轄の研究所であった。もともと,「対支文化事業」の実施は一九二三(大正一二)年に特別会計法の公布にともなって設置された外務大臣の諮問機関である対支文化事業調査会が,北京に人文科学研究所と図書館,上海に自然科学研究所を設立することを翌年に決議したことに始まる。事業推進のために一九二五年日中合同の「東方文化事業総委員会」が設けられた。北京人文科学研究所は一九二七(昭和二)年に設立されたものの,翌年,山東出兵によって起きた済南事変に抗議して総委員会の中国側委員が総辞職するに及んで,対支文化事業調査会は国内に研究所を新設することを決めた。こうして東京研究所と京都研究所からなる東方文化学院が成立した。 東方文化学院京都研究所は一九三八年に東京研究所とたもとを分かち,東方文化研究所として独立したが,一九四一年外務省から興亜院に,翌年には大東亜省に移管された。東方文化研究所は実質的には東方文化学院時代と変わらず,可能な限り時局的要請を回避して,中国古典文化の純粋研究という理念を追究したが,敗戦後の困窮に苦しむ中,一九四九年に「世界文化に関する人文科学の総合研究」を目的にかかげて発足した京都大学人文科学研究所に吸収された。この研究所の前身は一九三九年,東亜新秩序建設という時局的要請のもとに付置研究所として設置された京都帝国大学人文科学研究所である。所長は文学部長小島祐馬おじますけまが兼務し,一九四一年停年退職した小島に代わって高坂正顕が第二代所長となっている。 七〇周年を迎えたこの研究所が二一世紀におけるさらなる発展をめざすとき,戦前戦中二〇年の理念と戦後五〇年の理念を如何にして統合し継承するかがあらためて問われているように思う。 ここに紹介する高知大学附属図書館小島文庫所蔵「対支文化事業」関係文書四点は一九八一年夏,小島祐馬旧蔵書を小島文庫として高知大学に設置すべく同附属図書館に搬入した際,筆者がご子息懋氏から小島文庫の一部に加える許可を得て搬出した文書類の中から,「毛詩正義」残簡(唐代写本か)とともに見つかったものである。一九七九年春,人文科学研究所五〇周年の年に筆者は西洋部助手から高知大学人文学部に転任したが,そこで小島文庫設置準備に携わることができたのは不思議なめぐりあわせであった。その上,義和団事件賠償金をもとに構想された「対支文化事業」の理念の形成過程を知る貴重な文書に出会うとは正に奇縁であった。 一九二三年三月に「対支文化事業特別会計法」が公布されたあと,同年五月に上記「対支文化事業調査会」が設置されたが,その有力委員であった文学部教授狩野直喜は小島祐馬の恩師であった。小島は同年八月第三高等学校講師から文学部助教授に就任している。調査会は上述のように,翌年に北京人文科学研究所と上海自然科学研究所の構想を結論として出したが,小島は「狩野先生の学風」と題する,一九四八年五月二二日の支那学会記念講演会における講演で当時を振り返り,恩師の学問観と「対支文化事業」構想との密接な関係を現場の人間として次のように語っている。 学問を手段に使つてはならないといふ先生の信念は,(中略)政治や外交の如き重大な問題に当面した場合にも同様に強く主張せられたのであります。大正の末年我が外務省で対支文化事業を計画しました時,京都大学の支那学関係の教官の間では大規模の文化研究所の設置を唱道し,大体に於いて其の説が認められたのでありますが,是より先き其の趣意書を私に作れといふことで,その材料として各教授の意見を銘々箇条書きにして出していただいたことがありました。その時狩野先生の出された書付が今も残つております(後略,私家版と思われる同講演録による)。 この「狩野先生の出された書付」こそ,今回紹介する小島文庫所蔵文書四点のうちの巻紙(甲)である。また小島が作成したという「趣意書」の自筆草稿は(乙)と思われる。招聘中国人学者の分野別リストと事業概要からなる巻紙(丙),および事業の着手順序,研究部門(人文科学と自然科学),事業の区別(経常と臨時),経費,経費見積からなる四葉(丁)は,書き手が不明であるが,いずれも狩野の示した基本線に沿ったものである。狩野以外の教授が出したという箇条書きは所在不明である。小島は続けて,(甲)の冒頭二条および中国人学者の招聘と優遇を規定する条項を引用したのち,「学問を政治の手段から救ふ」という狩野の「異常な努力」の跡を回想する。 さうして研究所設置の場所は何処にするかといふ点については,或は内地に置くべしといふ説があり,或は関東州がよい,或は山東がよいといつた意見も出ましたが,内地説を極力排してすべての機関を一括して北京に置くべしとする狩野先生の意見が採用せられたのであります。此の場合狩野先生の態度は,すべて学問を政治上外交上の手段に使ふことから護り抜かうといふ気魄に満ち満ちたものでありました。山東出兵から支那側委員の脱退となり,北京の研究所の事業が停頓を来した結果,小規模の研究所を内地に置くこととなつたのが,東方文化学院の東京京都両研究所であります。初め京都で研究所の内地設置説を唱へたのは桑原〔隲蔵〕先生唯だ一人でありましたが,此に至つて桑原先生の説が最も実際的であつたことを立證したことになりました。研究所を内地に置くことになつてからも,その研究所が支那の古代文化を研究し保存し之を世界へ紹介するといふ目的は前の研究所の場合と変る所はありませんでした。さうして最初の間は大した故障もなく経過しましたが,支那事変が起ると共に軍部の圧力は此の方面へも延びて来まして,支那古代文化の研究など無用のことである,それよりも現在の対支政策に役立つ現代支那の研究をせよといふことを言ひ出し,外務省は折衷案を考へ,従来の研究はそのまま継続して良いが,その外に現在の政策に役立つ新しい支那の研究を二三取入れるやうにとの希望がありました。東京は訳なくその希望を容れ,租界の研究や列強の支那投資の研究など四つばかり新研究題目を掲げましたが,京都ではそれを拒絶して当初の目的を貫徹しました。これは京都研究所の幹部の一致した意見ではありましたが,交渉の局にあたる狩野先生に此点に就いて強い信念がなかつたならば,恐らく東京と同じ運命に置かれて居つたでありませう。学問を政治の手段から救ふことに於いて狩野先生の示された異常な努力は,誠に敬服に堪へないものがあります。 こうした京都の学風は軍部の圧力に屈した東京から,当時どのように見られていたか,ここで穿鑿する余裕はないが,上海自然科学研究所のことが気に掛かり,フランス文学者後藤末雄の『芸術の支那・科学の支那』(一九四二年刊)を再読してみた。「中国自然科学史に関する文献調査」という名義で上海自然科学研究所長佐藤修三から招聘を受け,一九四一年夏に中国各地を歴訪した著者の学芸紀行である。案の定,上海自然科学研究所訪問記録の末尾で,後藤は婉曲ながらも日本の中国研究の現状を憂えていた。 北京の研究所では四庫全書から逸脱した文献を蒐集中だと聞いてゐる。東京と京都の支那文化研究所はどういふ成績を挙げてゐようか。相当な研究業績を示してゐることだらう。けれども僕は支那研究に就いて一つの意見を懐いてゐる。昔、の、(傍点引用者)支那研究と言へば,その主体は経学であり,文学と史学とがその左右に陪席してゐた。実際,研究の範囲が狭かつたし,その研究も多くは内地研究で,文献から文献への研究であつた。(中略)東亜共栄圏の実現だとかいふ堂々たるスローガンを耳にするとき,邦人の支那研究が欧人の支那研究を唯一の頼にしてゐるやうでは誠に心細い。今後の支那学者は研究対象を拡大し,欧人の研究をも参照して,素晴しい研究業績を発表すべきである。(中略)支那精神文化研究所が遠く内地に設立されてゐるのは何ういふ訳か,僕には想像がつかない。(中略)支那研究が言はば「やもめ暮し」をしてゐては立派な業績を上げることは出来ない。それで僕は支那の自然科学研究は勿論のこと,精神科学研究も現地で行はれることが絶対に必要だと思ふ。(中略)とにかく上海自然科学研究所のそばに精神科学研究所を設けて,支那研究に「夫婦暮し」をさせなければ,今後の我が支那研究に対して,素晴らしい業績を期待することは残念ながら不可能だと信じてゐる。 中国研究に対する後藤の批判と展望は,上海自然科学研究所の素晴らしさに魅せられ,その自由な雰囲気にさそわれて,積年の思いが噴出したもののように思われる。この視点は,以下に飜刻紹介する対支文化事業関係文書にあらわれた狩野の理念を現在の時点でとらえ返し,発展させていく上でも,参考になるだろう。 飜刻に当たっては,句読点を含め出来るだけ原文に忠実を心懸けたが,漢字は通行の書体に改め,適宜濁点を補った。抹消語句は〈〉内に示し,判読不能の場合は〈―〉とした。はコトに直した。〔〕,「」および()は原文に使用されている記号である。()内の細字双行は単行に改めた。甲乙丙丁などの文書記号は,私に付したものである。 翻刻・写真掲載を許可していただいた高知大学附属図書館に謝意を表する。 (まつだ・きよし 総合人間学部教授) |
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