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人文科学研究所所報「人文」第五三号 2006年6月30日発行

共同研究の話題


「啓蒙」を求めて

田 中 祐 理 子    

 富永茂樹先生の主催する「啓蒙の運命」研究班に参加させていただき最初の一年がすぎた。研究班を準備する過程を見ることができたのは私にとって幸運だった。そこでは、「人文研で一八世紀の研究をする」ということのもたらしてくれる可能性が最大限に利用されていたように思う。贅沢に、というべきか。この方に参加していただけたらという、ほとんど夢にさえ近いような希望を、思い切ってぶつけることからこの共同研究は始まっている。そして現実に参加への承諾をいただいたとき、この人文研の建物の廊下を駆けて思わず歓声をあげながら、それを報告しあったことが思い出される。人文研のスタッフの仕事とは夢を見ること、そしてその夢を臆面もなく実現しようとすることだ、と言ったら言いすぎだろうか。それがいまではずいぶんと難しいことになりつつあるのはわかっているけれども、それでもこのような場があるのはおもしろい、そう班員の方に言っていただけたときには本当にうれしかった。

 もちろん夢の実現には大きな責任がともなう。そして個人的に振り返るなら、実際には「人文研で一八世紀の研究をする」ことの意味をわかっていなかった私は、この責任を果たすことは全くできなかった。しかしひたすら「人文研にいること」によって、「一八世紀を学ぶこと」の重さと豊かさとを目の当たりにする機会を与えられた。深く恥じいりながらも、人文研の助手というありかたのこの恩恵を思わずにはいられない(あるいは、このような図々しさもまた、人文研の助手がいつの間にか身につけてしまう財産なのだと嘯くことはゆるされるだろうか)。

 そのような喜びと緊張で始まった本研究班は、昨年一年間、ときおり「これはペースとしては無茶なのでは」という指摘も出る勢いで、二〇世紀における啓蒙研究の主要文献を読み続けてきた。

 この作業を通じて目指されたことは二点あると言えるのかもしれない。書かれた言語も、著者の専門そして立場もさまざまに異なった文献を立て続けに読むことを通して、まず第一に、私たちは「啓蒙」という主題の遍在性と多様性を体感することとなった。このことは率直に「啓蒙を問う」という作業の現況を知ろうと努めるものであるとともに、これから私たちが「啓蒙を問う」ためには必ず出会わなければならない、概念としての「啓蒙」のとらえがたさを確かめておくことでもあっただろう。そしてこの多様性を前にしたときの班員の反応、それぞれが発する言葉ひとつひとつのぶつけ合いは、これもまた多様な専門と関心とに導かれてこれまで研究を進めてきた私たちが、各々に抱いている「啓蒙」なるものを浮かびあがらせるものであった。私たちは「いま・ここ」にある多様性、異質であること、ときには齟齬に直面しなければならなかったが、しかし逆にこれこそが今日においてもなお進行している「啓蒙」という主題の執拗さと切実さとを私たちに教えたことは間違いない。この「準備作業」を共有することによって、私たちは「私たちの問題」としての「啓蒙」と「一八世紀」を論じ合うためのなんらかの平面を開こうと模索してきたのだろう。

 実は、この共同作業の空間に浮かびあがってきた多様性について、それを呼ぶのに私は密かに「ボードレール問題」や「カント‐サド反応」などといった勝手な言葉を呟くようになった。すべては試行錯誤のなかにあるが、一年かけてたてられた無数の測量標を、二年目にはいり私たちはどのように辿っていくことができるのか。研究班の課題は例えばそのようなものとなるだろうと考えている。


この字、なんの字、気になる字。 井波 陵一
アジア・ネットワークの研究 籠谷 直人
複雑系としての仏教漢文 船山  徹