私は平成二年(一九九〇)から四年間『儀礼的暴力の研究』というタイトルの研究会を組織し,今年の春にその成果である『暴力の文化人類学』という論文集を交換した。そこに収録されている一五本の論文のうち軍隊にふれているのは二本だけである。その理由は元々この研究会が儀礼の中の暴力や儀式化された暴力に焦点を当てていたということがあり,暴力を行使する集団を対象にはしていなかったということがある。三年前から取り組み始めた在日米軍の研究はこの『暴力の文化人類学』の延長線上にある。
今日の日本人は,米軍だけでなく軍隊一般に拒否感覚をもっている。その理由は,まず憲法上問題のある自衛隊とそれよりさらに問題の多い米軍を研究対象とすると,その存在を認めてしまうことになるのではないかという危惧であろう。つぎに,防衛を掲げていても実際には侵略に走る軍隊というものに戦後の日本人は辟易している,ということがある。平和主義という視点からいえば軍隊は唾棄すべきものであり研究に値しない,というわけです。しかし,これは一〇万人以上駐留している米軍とその関係者たちをまったく無視することであり,それは結果日米双方にとって不幸なことではないか。さらにまた,ここで私が意図しているのは軍隊の軍事的側面や政治的側面ではなく,あくまで人類学的視点から浮かび上がってくる生活共同体としての軍隊である,ということも強調しておきたい。
在日米軍ということばを分解するとどうなるだろうか。在日・米・軍と三つに分かれます。これがそのまま研究視点でもある。すなわち順番を反対にすると,一点目は軍,軍隊として在日米軍をとらえる視点,二点目は米,アメリカ研究への新たな切り込みという視点,三点目は在日,日本社会のマイノリティという視点である。そしてこれらのテーマで重要なのは,在日米軍が戦闘部隊とその支援組織からなるたんなる軍隊ではなく,独自の,しかしまったく外部から隔離されたのではない社会(生活共同体)を形成しているという事実である。この共同体をここでは軍事共同社会と呼ぶ。それは他集団への戦闘・暴力行使を専門とする職能成員とその家族からなる。軍事共同社会は世代的にも継承されている。本講演ではとくに,共同社会としての在日米軍の全体像と日本人との交流,米国での価値観の変容と軍隊,とくに女性化と家族を中心に話を進めた。
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