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高木博志 浅原達郎 東郷俊宏 阪上 孝


人文科学研究所所報「人文」第四七号 2000年3月31日発行

夏期講座(1999年度)


臨床医学における時間の知

 ――中国医学の窓から――

東郷 俊宏    

 「真人」,「薬王」などと尊称される孫思が七世紀中頃に編纂した『千金方』の巻二十六「食治」は,タイトルが示すごとく種々の食養生の方法に言及しているが,このなかに「凡常飲食,毎令節倹,若貪味多餐,臨盤大飽,食訖,覚腹中彭亨短気」という記述がある。最後に見える「短気」は,今日の用例と異なり「易怒」の意ではなく,「呼吸(気)が速い(短)」ことを意味しており,この条文は過食時に,腹部の膨満感とともに呼吸の促迫がみられることを述べているのだが,過食時の身体状況のひとつとして「短気」という呼吸の状態を取り上げている点に興味を惹かれた。今日でも食べ過ぎた時に腹を抑えながら「ああ,息が苦しい」と口にすることはあるが,「息が速い」と表現することは稀であろう。微細な事柄ながら,身体症状の記述(Nosography)という観点からはごく重要な問題である。そこで私は健常成人を対象に,過食時に呼吸が普段より速くなるかを実験的に検討した。呼吸状態は少しの刺激や環境の変化に左右されるため測定には困難が伴ったが,結果はほとんどの被験者において,呼吸の速化がみられた。実験方法を変えれば,寝たきり老人や車椅子に乗った状態にある患者の呼吸状態の測定にも応用し,孫思の指摘を今日の我々の「体感」に照らして食養生の意味を問い直すこともできるはずである。

 食事後に呼吸が速くなったからといって直接生命に関わるわけではなく,それがどうした,といわれればそれまでである。しかし,食事という日常繰り返される営みの中でみられる呼吸リズムの乱れに敢えて注目している点が重要なのである。孫思と同様の指摘は『太平聖恵方』でもなされており,呼吸リズムと養生が強く結びつけられていることをうかがわせる。

 魚にあって安定した呼吸を保証する鰓が,人間においては呼吸と関係ない顔面の表情筋となっていること,しかも鰓が平滑筋であるのに対し,人間の呼吸筋が体壁性の随意筋であり,それゆえに人間の呼吸リズムが極めて不安定な状態にあることを進化論の立場から論じたのは故三木成夫氏である。また西原克成氏は三木氏の学問を継承したうえで,人間の本来の呼吸が鼻呼吸であり,口呼吸を行う人が相対的に多い日本人(極寒地で喉のしもやけを起こすのは決まって日本人という)に,自己免疫疾患の危険性を指摘する。自身でバイオリンを弾き,「息詰まる」ことのない「憶」の状態を健康と考えていた三木氏の学問の根底にあるのは,「リズム」に対する優れた感性であり,これを形態学に取り入れた故に学問的には異端視する向きが強い。視覚化して説明することが困難な「リズム」にどれほどのリアリティを置くかによって,学問のあり方も大いに変わってくるのであろう。

 私は舞台照明に関わっていた頃,なぜ照明家と舞台美術家の仲が往々にして悪いのか疑問に思ったことがあるが,その原因もおそらく同じ点にある。「絵として美しい」照明は,生きている舞台にあって必ずしも「よい」照明ではないのだが,なかなか舞台美術家にはそれが伝わらない。

 「ひといき入れる」,「息抜きをする」,「息が詰まる」といった,「息」にまつわる言葉も次第に私たちの日常から消えつつある。心臓の拍動と並んで私たちの身体の動き,リズムを律している呼吸について,現代の私たちは鈍感になりすぎてはいないだろうか?


創造のとき,進化のとき 阪上  孝     
明治維新と古代文化の復興 高木 博志     
漢元年の惑星集合 浅原 達郎