北京は「砂漠の地であって,風が起これば砂塵が天に漲みなぎる」といわれる。大陸内部の乾燥地帯と湿 潤帯は,北京のあたりでせめぎ合っており,冬季には,まったく砂漠の地だというのが住民の感覚であった。
しかし,この巨大都市は,黄土台地から流れ出た永定河―潮白河がつくりだした扇状地に置かれたことに よって,豊かな水に恵まれていた。都市や宮殿が大きな水面を取り込むことによって風致と開放感をもたら
すばかりか,通恵河という運河によって,中国を南北に貫く大動脈である大運河と都城内の湖沼とを接続し, 水運の便を得ることも可能となった。
扇状地であるから良質の飲用水も得られた。元代の文人王廠は,一二六三年に自宅のなかに深さ十一 メートルほどの井戸をほったところ,「わが心肺を爆す浣すぎ,わが五臟を滌あ濯らう」がごとき清冽な水が得
られたのを喜んだのだった。だが,同じ土地のうえに都市生活がつづくなかで,土壌は汚染された。すでに明代 には水質の悪化が顕著であった。十八世紀になるとほとんどの井戸水は「苦にが水みず」となり,急須には三日
とたたないうちに水垢がこびりついた。糞尿,生ゴミなどが土中で分解されて生じる硝酸塩が地下水を汚染し, 健康に影響をあたえるほどの濃度に達したのである。良水の得られる少数の井戸は利権の的となり,そこから
汲んだ水を木製タンク付き手押し車で売り歩く北京の水売り商売は,このような背景のもとに生まれた。
城内では,燃料の灰やゴミが捨てられたため道路部分の土かさが増していき,雨が降れば汚ない泥水が道 から宅地に流れこんだ。現在の北京中心部では,数世紀にわたる都市生活が残したゴミや瓦礫まじりの土が
二〜六メートルほど堆積しているという。
十六世紀の人謝肇配は北京での生活を「住宅は狭苦しいうえに,盛り場には糞穢が多い。各地の人間が雑 処し,ハエやアブも多く,炎暑の時期にはもう死にそうだ」とか,娼妓や乞食が多いばかりか「奸盗が叢むらが
り錯あっまり,薑果ブローカーが出没し,人しゃ間かいの不美の俗,不良の輩は京師にみなそろっている」などと 苦情を述べたてながら,その一方で「このようでなくては京師たるに足らない」という言葉に納得している。活力
みなぎる巨大都市は,不潔や混沌そしてアブナさのなかでのみ文化と経済の中心たりうる。これは古今にわ たって真実であろう。
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