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夏期講座(2001年度)


鳥は言葉を発するか――聞きなしを考える――

小林 博行

 鳥は言葉を発するか。こう問われたときの答えはふたつ考えられよう。ひとつは鳥が言葉をもっていて, 私たちには通じないとしても,たがいのあいだで言葉を交わし合っているとする考え方。もうひとつは言葉に は人間の言葉しかなく,鳥の声は人間の驚きや喜びの声,あるいは悲鳴や怒号などとおなじだとする考え方 である。

 しかし例外的ながら,鳥が人間の言葉を発するかにみえる場合もある。インコやオウムのように,人間の 言葉をまねてそっくりに発音する鳥はおくとして,鳥の本来の鳴き声が,人間には言葉に聞こえることがある からだ。たとえば私たちは,ウグイスの声を「法,法華経」と聞き,ホトトギスの声を「特許許可局」と聞く。この ような「法,法華経」や「特許許可局」は,現在,聞きなしと呼ばれる。

 よく誤解されていることだが,聞きなしは日本語だけのものではない。私が知りえただけでも,中国語,英語, ドイツ語,フランス語にはたくさんの聞きなしがあるし,また東南アジアやアフリカ各地でも聞きなしが知られ ている。とはいえ,古い時代の聞きなしが文献にたくさん残っている点では日本語は特異かもしれない。そも そも「聞きなし」に相当する語は,ヨーロッパ諸語や中国語にはないようだ。

 「聞きなし」という言葉ができたのは,日本で野鳥観察が普及しはじめた一九二〇年代である。また,かつて は人の言葉についていわれた「聞きなす」という言葉が,鳥の声について使われはじめたのは江戸時代後半 だった。江戸時代後半のある国学者は,鳥の声は人の声と隔たりがある,だからそれはさまざまに「聞きな さるべし」とのべている。

 江戸時代後半は,国学者たちが音声の区別をしきりに気にした時代である。鳥の声と人の声,また人の声 でも日本語の音と外国語の音はちがうことを,彼らはことさらに主張した。近代になっても,野鳥愛好家は聞 きなしを「翻訳」と呼ぶことがあったし,京大にいたある鳥類学者は自分でつくった聞きなしを「仮訳」と称した。 これらは鳥の声と外国語の音を同列にみる考えの近代版といえよう。

 聞きなしが翻訳と呼ばれることはいまはない。けれどもいま使われている「聞きなし」という言葉には,どこか 寂しい語感がある。どうやら鳥たちは,仲間どうしで何かさえずっているのだけれども,人間にはそれがわか らない。仕方がないので,自分の言葉で勝手に聞きなしているという含みが感じられる。

 しかし,そう思うかたわら,それでもいいと私は思う。結局のところ,人間は自分にあるものを介して,自分 以外のものにつきあってゆくほかないからだ。このような関係は,ときに滑稽味を生じたり,ひどい誤解だった りするかもしれない。鳥の声を外国語になぞらえてすむどころではない。聞きなしは,自己と他者がいつもちぐ はぐな関係にあること,とりわけ人間と自然の関係がそうであることを思い出させてくれる。



人文科学研究所所報「人文」第四九号 2002年3月31日発行