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武田 時昌 加藤 和人 小林 博行 岩井 茂樹

夏期講座(2001年度)


長寿のサイエンス

武田 時昌

  人間の寿命はお金では買えない,誰しもが知っている格言である。平均寿命が世界一の日本では, 保健衛生事業の推進によって社会的環境は整い,死に至らしめる伝染病を克服した現代医学の力で, ゆりかごから墓場までの生命維持システムが構築されつつある。

だからといって,どの時代よりも健康に生きているという確信はないだろう。病気と認定されなくても 心身の不快感に悩み,精神的な安定性を大いに欠いている場合も少なくはない。古来より人々は長生 きするための工夫を様々に追究してきたが,現代人のほうがむしろ長寿を保つ知恵に乏しいように思 われる。

  古代中国では,不死幻想による神仙思想とともに養生思想が大いに流行した。長生きすることに人生 最大の価値を認めた最初の哲学者と言えば,老子である。老子は,文明社会に背を向ける「無」の哲学 を主張したが,同時に人為的営為を斥け自然の摂理に従って天寿を全うすることを究極の目的とする 「生」の哲学を唱えた。そして,弟子のなかから長生術を実践的に追究しようとする一派が分岐した。

 先秦の養生思想については,七百歳を超えて生きたとされる彭祖の伝説が知られているだけで,具体 的なことはほとんどわからなかった。ところが,近年に長沙馬王堆漢墓や江陵張家山漢墓から医書, 養生書が多数出土し,貴重な証言が得られた。

 そこには導引行気や房中,服薬等の養生術の始原的な姿が描かれており,後世の道教における錬丹術 (外丹)や瞑想法(内丹)と比較すると,基本的なアイデアと理論の骨子は漢初までにすでに確立していた ことが判明した,しかも『黄帝内経』が成立する以前の黎明期の医学と身体観を基盤とするものであった。

 つまり,生を養う古代人の知恵は,本質的には変容することなく,ずっと後世まで時を超えて綿々と 語り継がれていたのである。

 今日において,長寿のサイエンスというのは,まだ成立していない。それを実現させようとすれば,医薬 学の科学知識だけではなく,いかに健康に生きるかをめぐって様々な学問分野の文化的精華を結集する 必要があるだろう。その時には,古代人の生を養う知恵に学ぶべきものが大いに存在するように思われる。



人文科学研究所所報「人文」第四九号 2002年3月31日発行