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武田 時昌 加藤 和人 小林 博行 岩井 茂樹

夏期講座(2001年度)


ヒトゲノムと新しい人間観

加藤 和人

     二〇世紀の後半,生物学は飛躍的発展を遂げた。とりわけ一九七〇年代後半以降は,それまで微生物 中心だった研究が,植物や動物から人間にまで広がった時代である。その結果として人類は,おそらく 科学史上初めて,遺伝子,細胞,形態などのあらゆるレベルで,自分自身である「ヒト」という生物を本格的 に研究するようになった。今回の講演では,そうした研究から,どのような新しい「人間の見方」が生まれて きているのかを紹介することにした。

 ヒトに一番近い生物は,チンパンジーやゴリラ,オランウータンなどの大型類人猿である。ヒト及び, それらの生物の遺伝子解析から,ヒトは,チンパンジーとゴリラに非常に近く,オランウータンとは遠い関係 にあることが示された。ヒトと,ゴリラおよびチンパンジーの祖先の分岐は,それぞれ約七百万年前,五百 万年前であり,三つの関係は,鳥類や他の動物のグループなら同じ属に分類されてしまうほどの近さであ るという。この結果は,人間が早い時期に他の動物と分かれて進化してきたとする人類学の常識を覆すも のだった。

 世界中の様々な地域に住む現生人類の遺伝子解析からは,我々ホモ・サピエンスが,生物進化の歴史 ではごく最近の,一〇〜二〇万年くらい前にアフリカで登場し,それまで存在したホモ・エレクトスと入れ替 わる形で世界に広がったことを示す証拠が明らかになっている。さらには,今から数千年前の,これまで 考古学の対象だった時代の人骨のDNA分析も行われるようになり,例えば,二千五百年前の中国の山 東省に住んでいた人々が,ヨーロッパ系の人類集団だったことを示唆する結果も出ている。「DNA人類進 化学」と呼ばれる分野が,急速に発展しつつあるのだ。

 昨年の二月に発表されたヒトゲノムの解読結果も興味深い。例えば,ゲノムの中で意味のある情報を記 録している部分は全体の一・五%に過ぎず,残りは「ジャンクDNA」と呼ばれる意味のない配列であること が示された。対照的なのは,大腸菌や結核菌などのゲノムで,無駄な部分がほとんどなく,効率良く増え るのに適した構造になっている。ゲノムの効率性という観点からは,ヒトを含む哺乳類よりも細菌の方が高 等なのである。人間や細菌が,そもそも生物として高等か,下等かと問うことは意味がないことを,ゲノム 解析は教えてくれる。その他,ヒトゲノムの九九・九%は全人類に共通で,〇・一%が個人の違いであるこ とや,人種という概念に対応する違いはないことなども明らかになった。

 こうした「人間に関する生物学」は,まだ始まったばかりであり,現在のところ,歴史学や人類学以外には, 直接に人文学とつながる成果は少ないかも知れない。だが,今後十年,二十年の間に行われる研究からは, おそらく,人間社会の構造,人間行動の基盤などを理解するのに欠かせない重要な知見がもたらされ,よ り多くの人文学の分野に影響を与え始めるに違いない。生物学から生まれる「新しい人間観」に,多くの人 文学者が興味を持ってほしいと思う。



人文科学研究所所報「人文」第四九号 2002年3月31日発行