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報告書 紀要 所報 (第四九号 2002)
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阪上  孝 森  時彦 John Breen

随  想


ルソーとフランス革命

阪 上  孝

 ルソーとフランス革命については多くの研究があるが,『フランス革命期の公教育論』を編むために 『公教育委員会議事録』と『モニトゥール』を読んでいて出会った小さなエピソードを紹介しよう。

 ルソーの未亡人テレーズ・ルヴァスールは,国民公会に二度請願を行っている。一度目は恐怖政治も 終わりに近い一七九四年四月一四日のことで,ルソーの遺骸をエルムノンヴィルから移送してパンテオンに 祀る請願である。同じ年の九月二六日,ルソーが彼女に遺した草稿の二つの包みを寄贈し,価値のあるもの なら刊行してほしいと二度目の請願を行っている。当時は,ロベスピエールの文化財破壊(ヴァンダリスム) を攻撃し,散逸したり破壊された文化財の修復・収集が大きな政治的意味をもった時期だった。それに応 えて,ルソーの草稿や書き込みのある著書が多数,国民公会や公教育委員会に届けられており,彼女の請願 もこうした動きに沿うものであった。また,間近に迫ったパンテオンへの合祀の式典に臨席するという希望 や金銭的欲望も働いたであろう。

 問題は,この草稿の包みにルソーの封印が押され,開封は一八〇一年以後とする旨が記されているこ とだった。国民公会議員のバレールは,啓蒙の進歩によって真理が力を得るまで開封を待つというのがルソー の遺志であり,その条件は革命の勝利によって満たされたのだから,すぐに開封すべきだと主張したが, 反対意見も多く,結局,判断は公教育委員会にゆだねられた。翌々日,ラカナルが公教育委員会を代表して 次の報告を行った。ルソーが自分の意志の尊重を願ったとすれば,この指示を自分で書いたであろう。 ところで,この指示には「J.-J. ルソー氏によって託された(Remis par M. J.-J. Rousseau)」と書かれて いるが,ルソーは自分について語るときにはけっして Monsieur という語を付さなかった。したがってこの 指示はルソー自身の遺志とは認められず,開封を禁じる効果はないというのである。たしかにルソーは手紙 などにはほとんどの場合,JJRousseau と署名しており,後の調査ではこの指示はルソーの最後の庇護者だっ たジラルダンによるものと推測されている。いかにも性急な判断ではあったが,結果は間違っていなかった。


 開封の結果,中身は『告白』全編の完全な草稿で,それまでの刊本では頭文字でしか記されていなかった 人名がフルネームで書き込まれているなど,いくつかの興味深い書き込みがなされていた。この草稿は国会 図書館に収められ,後に「パリ草稿」として知られることになる。しかし委員会の結論は,将来『告白』の 新版を準備するには有益な草稿だが,すぐに印刷するほどの意義はないというものだった。

 ルソーの遺骸のパンテオンへの移送は,この年の十月九日から三日間をかけて盛大に挙行された。それは 恐怖政治後の文芸復興を印象づけるための最初の国家的行事だった。それはまた,ルソーが歴史的存在として 安定した位置を得たことを示す行事でもあった。テレーズ・ルヴァスールをこの行事に招待する動議が採択 されているから,彼女もどこかで見ていたのだろう。しかしそのことについては何も記述はない。