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報告書 紀要 所報 (第四九号 2002)
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阪上  孝 森  時彦 John Breen

随  想


胸のすく思い

森  時 彦

丁文江,趙豊田両氏の編纂にかかる『梁啓超年譜長編』は,中国近代における最大の啓蒙家,梁啓超の五十六年 におよぶ生涯を,書簡などの第一次資料で綴った一二〇〇頁を超す大部の書である。

 アジアで最初の共和国が誕生した中華民国元年(一九一二)は,立憲君主制を主張していた保皇派の梁啓超たち にとって,厄介事の多い年であった。海外における保皇派の衰退とともに,師と仰ぐ康有為との関係にまで亀裂の生 じはじめた梁啓超のもとに,康有為を崇拝してやまない麦孟華から五月二十九日付けの詰問状が届いた。その書簡 の中に「玉茗〔?〕が日本から戻って来て,あなた〔梁啓超〕から,海外のわが党〔保皇派〕は今や百分の二,三しか 残っていないという話を聞いた,と言っていました。初対面の相手に,どうしてそこまで打ち明けてしまわれたのです か」との一節がある。この「玉茗」とはいったい誰か。

 故島田虔次先生の遺志を継いで,狭間直樹,井波陵一両先生を中心に進められている『梁啓超年譜長編』の翻訳 作業の過程で,このように緊迫した大事な場面でありながら,肝心の事が分からないといった隔靴掻痒のケースが 頻出した。普通でも書簡の文面には,遣り取りしている本人たちにしか分からない表現がよくある。まして世界中を 飛び回り,西太后暗殺の地下工作にまで関与したと目される梁啓超がこの時期に交わした書簡は,隠語はもちろん 暗号のような表現まで入り乱れて,翻訳者をほとほと困らせる。昨年七月から半年間,中国社会科学院近 代史研究所の楊天石先生に外国人客員としてお越しいただいた目的の一つは,これらの手に余る数多の難問に 直接お答えいただくことであった。

 隔週ごとに三時間の質疑応答は,まことにスリリングで勉強になった。「玉茗」についても,これは湯覚頓 あるいは湯化龍と推測できるが,おそらく後者であろうとの明察を下された。その謎解きのプロセスは,こう である。明代の湯顕祖という作家には,「玉茗堂四夢」と称される四種の有名な戯曲がある。この故事を踏 んだ隠語だと仮定すると,湯顕祖と同じ湯という姓の人物を暗示していることになる。当時梁啓超と接触の あった湯姓の人物は,湯覚頓と湯化龍の二人であるが,「初対面の相手」との後の一句から推して,湯覚 頓とは考えられない。案の定,同年四月三日付けの何天柱の梁啓超宛書簡に,湯化龍がこのころ日本に 渡ったことが明記されていることも後に判明し,磐石の傍証が得られた。

 分かってしまえばコロンブスの卵とはいえ,そこに到達するには,文史哲にまたがる博覧と鋭い洞察力, そして梁啓超をめぐる人間関係についての掌を指すような知識が,どれ一つとして欠かせないことは言う までもない。帰国されてから一月余りになる今,楊天石先生の胸のすくような実証の数々を思い起こしな がら,中国の碩学から直に学ぶことの大切さを改めて痛感するとともに,そのような機会がより多くなるよう 願うこと頻りの今日この頃である。


人文科学研究所所報「人文」第四九号 2002年3月31日発行