最新 | 講演会 | 研究所 | 研究活動 | 図書室 | 出版物 | アーカイブ | 目次 |
報告書 | 紀要 | 所報 | (第四七号 2000) |
随想 | 夏期講座 | 開所記念 | 退職記念 | 彙報 | 共同研究 | うちそと | 書いたもの | 目次 |
冨谷至 | 岩城卓二 | 王寺賢太 | 古松崇志 | 原田禹雄 |
人文科学研究所所報「人文」第四七号 2000年3月31日発行 | |
所のうち・そと |
|
<人文科学協会奨励賞>奨励賞を受けて |
|
原 田 禹 雄 |
|
沖縄との出会いは、派遣医として出張した一九六七年のことであった。はじめて見る沖縄の風物と人物の素晴しさにうたれたが、この時に見た又吉静枝さんの「諸屯」という女手踊りの静かさと華麗さに魅了された。 四度派遣された沖縄の日々の印象が、忘れることができなかった私は、琉球関係の本を買い集め、診療の余暇に勉強を始めた。『中山伝信録』が、多くの書に引用されているので、その訳注書を探したが、生硬な読み下しのほかにはなかった。京大図書館の『伝信録』のコピーを、自分のために、ひとりこつこつと訳注をした。中国文学専攻の兄に校閲してもらったところ、兄の口ききで、東京から出版された。一九八二年のことであった。次に、京大東洋史の李鼎元の『使琉球記』を訳注し、一九八五年に東京から刊行された。訳注書を読むことを願いながら、それがないために、訳注者になってしまった。 |
|
一九九二年に定年を迎え、私は京都の自宅へもどり、思う存分、冊封使録の訳注に没頭した。そこへ、宜野湾の榕樹書林の武石社長から、冊封使録の訳注書を出版したい、という依頼があった。かくて、年に一、二冊の割で、私の書いたものが、本になっていった。本業の古書店の時は黒字だったが、私の本を出す頃から、人々が本を読まなくなったこともあり、赤字経営となった。本の性質上、当用漢字だけですむはずもなく、編集担当の国書サービスの割田さんは、とうとう旧漢字とそれに近いものすべてを、印字し作字する体制を印刷所の中に作りあげてくれた。 私の訳注書は、沖縄からは、ほとんど反応はなかった。県立芸術大学教授の又吉静枝さんは、私の使録を読み、『伝信録』に書かれているのに、すでに廃絶していた入子踊の復元をされた。私の作業が、琉球芸能のお役に立っていたのである。 奨励賞のことをきき、琉球のことを、そして門外漢の私の訳注のことを、人文研の方で見守っていて下さったことがわかり、うれしかった。看護学校で、私が始めて皮膚科を授業した、奄美出身の卒業生たちが、今回の受賞をよろこんでくれて、こんな手紙が来た。 「医学の領域で、そして琉球に関する領域で、先生が努力を続けて来られたことは、私達の誇りです。先生がお書きになった本は、シマンチュ(島人)の宝です」。 |
|
つまらなかったNHK「新シルクロード」 | 冨谷 至 |
小中学校教員を養成すること | 岩城 卓二 |
晴れた日の朝には自転車で | 王寺 賢太 |
二○○三年春北京にて | 古松 崇志 |