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人文科学研究所所報「人文」第四五号 1999年3月31日発行

随  想


私的な私的な話

吉川 忠夫    

 「白駒過隙」の言葉のとおり,人生はあっという間に過ぎて,致仕まで後わずかに一年をのこすのみ。この際に臨んで,極めて私的なことがらながら,東方部に所属する私が,北白川の分館を捨てて東一条の本館に住まうこととなったわけを,いささか弁じておきたい。よほどの物好き,と思われているかも知れないのだから。

 私は分館の建物とはほんの目と鼻の先の同じ町内に生まれ育った。小学校の夏休みや冬休みに課される図画の宿題には,「わが塔はそこに立つ」というわけではないけれども,自宅の二階の窓から間近に望まれるその建物の白亜の塔をしばしば画材に選んだものである。塔の上にちょこんと乗る避雷針が少しかしいでいたことも,よく憶えている。いつかの落雷でかしいだのだそうな。そしてまた父も,東方文化研究所時代のその建物に研究室をもっていた。しかし,その建物の中に足を踏み入れたことは滅多にない。扉を通して垣間見られる赤いジュータンの続くしんとした廊下。それはいかにも厳めしいものに感ぜられた。母親から父への用事を言いつけられても,研究室の窓の下に立って,「お父さん」と声をかけるのがせいぜいだった。

 それにもかかわらず,こんなこともあったことを思い出す。やはり小学生時代のことなのだが,悪童連とその建物の中に闖入し,キャッチボールを始めたのである。今でいう哲文研究室の南側の前庭で。グラブに投げこまれるボールが,建物の壁に反響して快い音を立てるのを楽しもうとしたのに違いない。ところが突然窓が開き,「うるさあい,出て行け」とどえらい剣幕で一喝され,ほうほうの体で遁走したのだった。一喝を食らわされたのは,一体どなたであったのだろう。このようにして,子供心にも,その建物に対するアンビヴァレントな感情が私には交錯していたのだ。

 私が教養部から人文研に移ったのは,東一条の本館の建物が落成する一年前の一九七四年のこと。最初の一年間は北白川の建物に研究室をもらったのだが,少年時代の記憶が頭の中をぐるぐると駆けめぐって,どうにも落ち着かない。それに何よりも弱ったのは,顔見知りのおばさんから,「坊ちゃん,立派にならはりましたな」と近くの路上で声をかけられることだった。

 私が本館に住まうことを決心したのには,こんなわけのあったことを分かっていただきたい。


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