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吉川忠夫 勝村哲也 タカシ・フジタニ ピエール・バイヤール


人文科学研究所所報「人文」第四五号 1999年3月31日発行

随  想


日本・沖縄・朝鮮

タカシ・フジタニ    

 年が明けて,僕はほぼ九年ぶりに沖縄を訪れた。九年前,僕は日本近現代の天皇と天皇制について調査をしていた。そのさい沖縄を訪問した主な目的は,沖縄の人々の抱く戦争の記憶と昭和天皇の戦争責任についての見解を調べることだった。それは僕にとって初めての沖縄訪問だった。一九八七年の「日の丸焼き捨て事件」で有名になった知花昇一氏にチビチリガマという読谷村の「集団自決」の場所を案内してもらったり,沖縄戦を経験した人々のオーラル・ヒストリーを何年にもわたり聴き取ってきた石原昌家氏と出会ったりした。こういう人々との出会いが,今も鮮明に僕の記憶に残っている。

 もっとも印象深かかったのは,大宜味村という,小さくて美しい,一見とても平和に見えた村で見たり聴いたりしたことだった。この村の役人たちは昭和天皇の葬儀のさい,休日を認めなかった。大葬の礼の日に平日出勤した,日本全国で唯一の役場だということをマスコミの報道を通じて知っていた僕は,いったいなぜそういう事態になったのかを知りたくて,この村を訪ねた。役場で最初にうけた説明では,単にいくつかの偶然がかさなって休日にできなかっただけであって,特別な意味をこめて出勤としたわけではない,ということだった。ただ,その後さらに話を続けてゆくなかで,役人のひとりが,昭和天皇に対する憤りと,沖縄戦で日本兵に殺された村民の話を,非公式の話としてきかせてくれた。

 しかし,僕は当時,沖縄で「沖縄人」の記憶を求めていたために,沖縄という場所に刻まれている朝鮮人の過去にはじゅうぶんに注意をはらっていなかった。僕は現在,日本の兵士として動員された朝鮮人について調べている。だから今回の沖縄見学では,軍人・軍属として動員された朝鮮人がどのように沖縄で記憶されているか,強い関心をもって戦跡や記念物を見てきた。

 おそらく沖縄でもっとも顕著なかたちで沖縄戦のなかの朝鮮人を記憶している場所は,一九七五年,平和記念公園内に建立された「韓国人慰霊塔」と,一九九五年に建設された「平和の礎」のなかの韓国・朝鮮人の名前を刻んだ個所だといえるだろう。もっとも,「韓国人慰霊塔」にも問題はある。この塔は公園内の片隅に建っているために,訪問者の多くがここを訪れることなく帰ってしまう。

 いっぽう,「平和の礎」では,合計二三六,〇九五の沖縄戦戦没者がこの記念碑に刻名されているが,そのうち旧植民地出身者は,台湾人二八名,大韓民国の人々五二名,朝鮮民主主義人民共和国の人々八二名とのみ記されている。正確な数字は不明だが,おそらく何千人もの朝鮮出身の軍人・軍属と従軍「慰安婦」が沖縄戦で命を落としたはずだ。刻まれた名前があまりにも少ない。正確に調べあげることが難しいということがいちばんの理由であろう。ただ,刻まれた名前がこのように極端に少ないのは,遺族たちの抵抗が障壁となっているためでもある,ということも聞かされた。戦後東アジアの政治的状況においては,沖縄戦で亡くなったという事実は,日本帝国の協力者であったという負の歴史的位置を与えられる。だからあえてそのことを思い出したくない,というのが遺族の立場だということのようだった。

 このように,今回の沖縄への旅は,僕にとって,帝国日本が総動員した様々な地域の人々の経験を記憶することの困難さを,あらためて思い知らされるものとなったのである。


私的な私的な話 吉川 忠夫
バーチャル・ネイバーフッド 勝村 哲也
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