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人文科学研究所所報「人文」第四六号 1999年11月18日発行

《座談会》人文回顧(II)――二一世紀を展望して

大浦康介/籠谷直人/金文京/小山哲/阪上孝
/武田時昌/冨谷至/横山俊夫/吉川忠夫

<共同研究のタイプ分け>

籠谷 共同研究というのは,どういうスタイルが有効なのか,と考えることがあります。
大浦 共同研究形式とディシプリンあるいはテーマ設定とのあいだの相性ということを僕は考えます。僕の印象では,例えば歴史研究というのは比較的に相性がいいように思われるのですが……。
阪上 私のこれまでの経験では,成果のまとまりやすい共同研究というのは,ある個人か,あるテキストを取り上げたもので,おのずと収斂点が一つになる。ある時代の研究というのは,拡散しやすくて,案外難しい。抽象的命題をテーマにすると,さらに難しくなる。でも,現在の共同研究は,抽象的命題のものを取り上げるのが一つの道ではないでしょうか。
横山 テーマが決まるまでに,一年くらいしかないでしょう。でも,そこに時間をかけて,所内の多くの人に応用問題になるようなテーマを見つけだす作業をしないとね。
吉川 また紛争の頃の話題で恐縮なんですが,共同研究のランク付けをABCでしていたことがあったそうですね。テキスト読みは,Cランクだったとか。
阪上 あれはランクづけではなくて,タイプ分けでしょう。東方部の共同研究で,これまでの蓄積もあって,学際的研究ではないけれども,本読みの伝統を生かそうとしたものではなかったのかなあ。
冨谷 その三つというのは,討論形式のもの,本読み,そして索引作りだったはずです。索引作りは長く続くし,作業的なものだから批判が出たと聞いています
吉川 僕は,『真誥』を読んだのは成功だったと思う。いろんな専門家が寄り集まって読まないと理解が深まらないテキストだった。
武田 科学史研究班で読んでいるテキストもそうです。
大浦 会読形式というのは,僕も大切だと思います。ただ,僕には経験がないので想像でしか言えませんが,会読というのはあくまで方法であって,重要なのはその向こうにあるゴールでしょう。
冨谷 東方部で行っているテキストの解読は,いくつかの解釈のパターンを探りながら,いかに正確に読むかというところにゴールがある。
吉川 訳注を作るというのが,最終目的地ですね。
大浦 共同研究のなかには,目指すゴールはないが,模索しながら作り上げていくようなものがあってもいいのではないでしょうか。
阪上 桑原先生の時代なら,例えばルソーを読むのに,それぞれの人が陣地を持っていて,一つの対象をいろんな角度から攻めるというのが中心だった。けれども,これから要求されるのは,そういう学際的な研究だけではなくて,共同研究から新しいディシプリンが出てくるようなものを目指す必要があるのではないか。
籠谷 一九七〇年代の人文というのは,反マルクス主義を掲げてがんばっていたイメージがあった。しかし,ターゲットとしてのマルクス主義が弱体化し,人文のメッセージも弱くなってしまったところがあるように思う。もはや陣地を守って勝負するという戦略が失われているのかもしれない。
横山 生態学の人たちは,一億年から百年ほどまでの複数の時間単位で,しかも人間を含む生物群の種間関係を視野に入れて,人間の歴史を語ろうとしている。私にはそれほど違和感はなく,自然科学と人文学が共同して,生命のかたちを語り直すどのような方法があるのかというところで,両者が歩み寄れると思う。世界の何処でそれが可能なのかと考えた時に,人文もそれができる場所の数少ない一つであるように思う。
阪上 横山さんが自然科学と人文学の対話を試みているのも,その二つから何か別のものを生み出そうとする狙いがあるんでしょう。自然科学も,単純な因果関係を追究するだけでは行き詰まってきて,複雑系とかが出てきたように,人文学と接近しようとしている。以前の社会科学は,自然科学をモデルとし,自然科学化をめざしていたけれども,そうではなくなりつつある。だから,ゴールはわからないが,共同で研究するなかで違う見方を生み出す時代になっていくのだろうと思いますね。
それは確かだが,共同研究について言えば,そうでない研究会もあっていいのではないか。さっき冨谷さんが言ったように,正確に読むということを目的にしたもの,あるいは何を言っているのかわからないテキストの解読もあっていいように思う。共同研究というのは,要するに,その時点でやりたい人がやりたいことをやる,というものであるべきだ。
横山 意味の分からないものを解釈するというのは,無駄も多いが,ヒントも多い。その蓄積は大きな力になる。「本読み」と簡単に言ってしまうが,その精進は大切です。何かにすぐに役立てるためにやってきたわけではないでしょう。人文が数少ない場所になりうると言ったのも,古典研究を地道にやってきたからだ。それから,言葉の問題ということで言えば,読みやすい文体で書くという工夫も忘れてはいけないね。特定の専門家しかわからんという論文はいただけない。人文でやらんといかんことは,古い言葉を集めることと今の言葉を磨くということではないですか。
武田 さっき思想の衰退とか,フィロソフィーの欠如とかが話題になったけれども,現代の先端科学には言語力がない。学問にとってそれはおぞましいことであり,人文学がサイエンスにおいて何かやれるとすれば,そこにポイントがあるでしょう。
横山 理学研究科や医学研究科からも期待を寄せられていますよ。
冨谷 さっきの三つのタイプで索引作りはダメと批判的に受け取められてきた時代があった。期間が長い,徒弟制になる,みんなが作業員になるという弊害があった。ところが,最近の研究者会議で,興味深いと思って聞いていたことがありました。藤井さんが始められたインド学の共同研究は,これは作業だと表明されておられたことです。かつての東方部の一種の資料集め,索引作りに再び戻ろうとする。まさに,循環ですよね,これは。
横山 そうそう,循環しているうちに,日・東・西の三つの部が寄り合って,縄になることもある。
大浦 テーマも手法も違ったいろんな研究会があっていいように思います。多様性を豊かさとして認めてほしいですね。
吉川 やられるのは,今でも自由ですよ。
大浦 僕には,今の人文の雰囲気がいいとは思えません。共同研究方式の硬直化とか,領域の違う専門家のあいだの対話がなかなか成り立ちにくいこととか,理由はいろいろとあるでしょうが,いずれにしても研究者同士の生き生きとした関係が見られるとは思われません。研究会を本当に「楽しんで」いるようにも見えないし。
形だけで研究会をやっているからでしょう。
横山 これ面白いからやろうというのは,大切にしたいですね。
籠谷 確かに横山さんの研究班は,銭湯まで一緒に楽しんでおられるようにみえる(笑)。
横山 ちょっとつけ加えると,退屈することも大事ですよ。何でこんなことをやっているのかという感じをみんなが共有すると,新しいことがポツポツ出てくる。
大浦 退屈の効用ですか,横山流パラドクスですね。やっている研究会がいったい何の意味があるのかという議論もできるような共同研究でありたいですね。
吉川 東方部の研究ということで言えば,本読みの研究会は,是非とも続けていってもらいたいものです。それに,仲良く楽しくやってください(笑)。

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