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人文科学研究所所報「人文」第四六号 1999年11月18日発行

《座談会》人文回顧(II)――二一世紀を展望して

大浦康介/籠谷直人/金文京/小山哲/阪上孝
/武田時昌/冨谷至/横山俊夫/吉川忠夫

<ポスト共同研究の試み>

小山 過去の歴史というのは,ある意味では,我々を縛っているし,いろんなしがらみにもなっている。でも,たまに振り返ってみてもいいなあと思うのは,現在のスタイルがいつも絶対であったわけではないことがわかることです。人文のアイデンティティーは,ほんとうに現在行われているような共同研究にだけあったのかと言えば,海外調査を盛んにやっていた時期もあるし,けっこう流動的だったようにも思います。
冨谷 中国史研究の場合で言いますと,これまで以上に中国人研究者との競争が激化してくると,研究対象となるモノを直接に持たない我々が,じかに扱える本国に対抗して何をすべきかが問われてくる。科学技術史や考古学でも,状況は同じではないかと思いますが,これまでは優勢に研究をリードしてきたけれども,やがて比較文化史でしか生きていけなくなるかもしれない。外国史研究がかかえる苦悩に,中国史もいよいよ陥ろうとしているわけです。そこで,これまでの遺産を継承するだけではなくて,新たなるフィールドワークに着手することはもちろん不可欠になってくるように思います。
武田 そうした学問状況の変化に,共同研究の枠組みも対応させる必要があるということですね。
冨谷 その通りです。共同研究の参加メンバーも,外国人にまで広めていかないといけなくなるように感じています。それには,これまでとは違って,非定期なものを考えないわけにはいかなくなる。我々の課題としては,そうしたプロジェクトの拠点として,どれだけの求心力を発揮できるか,というところにあるのではないでしょうか。
大浦 共同研究でなくてはならないということは,今や再考してもいい時期に来ているのではないかと僕は思います。研究者が注目されるのはやはり個人研究であり,そういう時代なら個人研究をしっかりやろうよというスタンスも忘れてはいけない。
基本的には大浦さんに賛成なんだけれども,ここは個人研究で満足できない,広く外の意見を聞いてみたい人が来ているはずなんです。個人研究で立派な業績をあげるだけでいいなら,ここにいる必要はないでしょう。
籠谷 僕は,是非ともインパクトのある共同研究を将来立ち上げたいので,班長の方にいろいろと尋ねたりしていますが,共同研究というのは,個人研究の延長で組織してはいけないと言われたことがあります。
冨谷 共同研究と個人研究は,チームプレーと個人成績で,そんなに矛盾するものでなく,相補的な関係にあるべきだ。一人はみんなのためという形を設定して,そこからチームワークを生み出し,同時に個々の班員の個人研究を伸ばすというのが,班長の力量ではないだろうか。
そもそも研究というのは,どうやってもいいし,自分のためにやるものだと思っている。個人のためにやってはいけないというのはちょっとおかしい。ここに来て五年間,研究者会議なんかで感じていることは,成果を出さないといけない共同研究がいかに大変かということを感じる。でも,本来は,共同研究はいろいろな人が集まることで,自分だけではできないことができて,自分の世界も広がる,そうした楽しいものであるはずだ。それなのに,伝統の維持というか,共同研究を成功させるためだけにやるなんて,ナンセンスでしょう。自分の研究と共同研究が乖離して,そんなに面白くなくて大変なら,やめればいいと思う。方式だってそうでしょう。人文式共同研究があって,それに従ってやらなくても,みんな違っていていい。そこに,個々のパーソナリティが発揮されるべきでしょう。
武田 人文方式なんかないのに,あるかのように自己規制してしまうのが一番怖い。
横山 京都の町には,人文研に想いのある人が多い。それもあるイベントをやるためにきわめて具体的な事柄について知識を求められることがある一方で,逆に町には色の種類なら二千も見分けられる人がいたりする。今はうまく繋がっていない。もう少し,町の人とつき合うと,いろんな楽しいことがある。
武田 人と繋がっていくためには,アウトプットの仕方にも工夫がいるように思いますが。
冨谷 近年,共同研究の成果をまとめた出版物の経費が極端に少なくなってきている。これは何とかしてもらいたいですね。出口のところで詰まってしまったままで,共同研究の活性化とか言ってもうまくいくはずがない。
吉川 ここの出版物は,古本屋でとんでもない非常識な値段がつく。それに大いに疑問を感じたから,僕は共同研究の成果をよその出版社から出してきた。それなら,定価がつくから,少し高くても,買いたい人が手を出せないようなことにはならないでしょう。
武田 ここの共同研究には,聞き手,読み手がいないということですかね。
横山 誰に語りかけるかというと,後世の人を待つのみ,というタイプもあるかもしれない。
大浦 共同研究の「共同性」とは何かを考えると,結局は研究者相互の関係の「身体性」に行き着くと思うんです。理念的な関係,つまり情報交換だけなら個人でもできる。でも,肉声で語り合ったり,まなざしを交換するためには,人と会わなければならない。共同研究のイベント性というのもそこにあると思うんです。
この前の会議でインターネットでやるという人もいたけれども,アレもいいと思う。
大浦 共同研究の落としどころとして,論文集だけがあるのではなく,一回一回の会合や議論を一つのイベントとして,いわば「事件」としてとらえるという見方もあるように思います。
小山 共同研究の成果を,活字になった論文集だけとは考えないで,プロセスそのものも評価するわけですね。ただし,対外的に認めてもらえるかというと,難しいところがあるのではないでしょうか。
冨谷 単なるサロンになって,言い放しでいいのかという問題はあるように思います。私は今,中国の辺境に出土した木簡の解読を試みる共同研究を開いていますが,きちんとした成果を出すには,少数精鋭にならざるを得ないところもあります。専門性を高いレベルで保とうとすると,班員に無責任な発言は慎むことを要求しないわけにいかない。でも,そうした緊張感は大事にしたいですね。それに,共同研究から終わって出版物にまとめるまでの過程も,相当なエネルギーを費やしますが,だから評価されるものが出てくるように感じられます。その最終作業が楽しくて仕方がないなら,誰も文句はないのでしょうが(笑)。
阪上 面白くやるというのは,共同研究の基本的なモチベーションですが,同時に税金で成り立っている機関ですから,タックスペイヤに対する責任を考えないといけない。今日,この点があまりに短期的・短絡的に強調されているのは,大いに問題ですが。
同好会ではないのだから,同業者から見て,認めてもらえるようにするものを出す必要もある。それは,楽しくやることと別に矛盾するわけではない。
阪上 そこが無責任になるとね,困ったことが生じる。義務を果たさないなら,民間でやれとかね,いろいろややこしくなる。
吉川 それと引き替えに,大学院を持って,教育にも乗り出さないといけない,というすり替えが起こっても問題です。
阪上 そうしたすり替えが起こっているのが現状でしょう。でも,別の形での社会的貢献を積極的に提起しないといけない。
我々が還元しようするのは,必ずしも今の社会ではなく,次の社会でしょう。私が以前にいた大学では,まず企業にアンケートを取って,学生に何を希望するかを聞いたうえで,授業の方法を立てるというところだった。ここは,そういう所ではないし,それでかえって後で役に立つこともあるのではないでしょうか。
武田 インターネットでフリーに流すということも,考えてもいい。大浦さんのポルノグラフィー研究班なら,肉声と映像を添付する(笑)。古本屋の値段の高さで問うてきた外部評価を,無料で流した場合のアクセス数でそれを行ってみれば,人文研の存在価値もはっきりするかもしれない。文献センターを,研究情報の発信基地に活用するというのは,どうでしょう。
阪上 研究所における文献センターの位置づけというのも,今後の大きな課題でしょう。外部評価ということで言えば,数年前に外国人招聘教授にアンケートを行いましたが,客員で来られた方々と交流を続ける点でなかなかよかった。時々やって,もう一度ご縁を結び直すこともいいのではないですか。
横山 センターの活動がうまくいくかどうかは,そうした人々が世界各地の拠点となってこそ機能する。
小山 研究所は,外から何をやっているか,見えにくいところですね。だから,成果の出し方を工夫する必要がある。出版物がばらばらであるのを,何かにまとめて出すのもいいでしょう。インターネットの発信もこれからです。でも,どこからでもアクセスできるから,これには,京都でなければならないというローカリティーがない。だから,三つ目として,夏期講座というのも,意外と大事であるかもしれない。共同研究や個人研究の成果を,地元の方々に開く活動をするのも,意義のあることでしょう。
阪上 人文研叢書というのを,企画しようという動きはある。夏期講座,開所記念講演も,京大の他のものとまとめて出すというのもいいかもしれない。
でも,叢書の出版や市民向けの講座というのは,どこの機関や大学でもやっていることではないでしょうか。だから,あまり効果はないかもしれない。
横山 人文研は,どういう組織であるのかを考え直す時期に来ている。万一,最適の研究環境であるというならば,自分たちだけで独占するのではなく,メンバーを固定しないで交替させていく必要がある。しかも,文系だけに偏るのではなくてね。
学部の人は,教育することを大変というけれども,それによって研究面でのメリットを得ているところもあるはずです。だから,教育しないことのロスを考えれば,たとえば文学部と三年くらいで入れ替えをしてもいい。まったく知らない初級の人に話をするというのは,大変だけれども,ためになることが多い。
大浦 私は,コレージュ・ド・フランス方式というのを提唱したい。年一〇回程度,一般向けに授業をするのです。誰が聴きに来てもいいかわりに,単位などは出さない。共同研究をやるか,これをやるか,それを所員の最低のノルマとするのです。もちろん両方やる人がいてもいい。どうでしょう。
阪上 今の大学制度ではやりにくいところがあるが,今,大学は大きな変化を迫られていますから,そのなかでうまくやれば,何かができる可能性はありますね。
小山 共同研究を母体としてもできるのではないでしょうか。
武田 まもなく訪れる二一世紀には,共同研究が多様化,活性化し,さらにポスト共同研究の試みもなされそうで,大いに期待できるのではないかと思います。今日のところは,このあたりで。
(一九九九年九月九日 本館応接室にて)

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