田中雅一さんの呼びかけで,文化(社会)人類学,文学,思想,心理学など様々な分野の人が集まり,
フェティシズムについての共同研究を行っている。参加者それぞれの思惑はあるだろうが,文化人類学的な
観点からいえば,近年の主体やアイデンティティの構成という議論の中で見落とされがちなモノ(オブジェクト)
の意義を,フェティシズムというテーマの検討を通じて再評価しよう,というのが主要な問題関心の一つである。
スタートから二年近くが経過し,地域的にもテーマ的にも多様な,それぞれ大変興味深い発表がなされたが,
正直言ってなかなかフェティッシュの正体はつかめない。フェティッシュはフェイク fake と同語源とされるが,
まさに本物か偽物かわからない,曲者である。ルイス・ブニュエルは映画『欲望のあいまいな対象』で,濃厚に
マゾヒズム的=フェティシズム的世界を彼一流の諧謔を交えつつ描いて見せたが,フェティッシュは,この映画
の主人公コンチータのように,我々を魅了するかと思えば,我々を裏切り,失望させる。
そうした中でも,個人的印象としては,ある程度の輪郭はつかめてきた感じもする。フェティッシュと呼ばれる
ものが,呪術的・宗教的・審美的・性的な高い価値を与えられつつも,同時に何らかの意味で着脱可能なもの
であること,そうであるがゆえに,儀礼や宗教的・マゾヒスト的契約といった装置(個人的忠誠心でもよいが)の
下では大きな力を発揮するが,そうした装置の外では自律性を失いやすいこと,などである。現代社会は,あ
らゆる商品に審美的付加価値が加えられ,我々は「自らの好みに応じて」それを購入するわけだが,そうした
「商品のフェティシズム」(マルクスとは違った意味での)の性格も,そうした枠組みの中でよりよく理解できる
ようになるように思われる。ただ,他方では,精神分析の対象論や動物行動学・霊長類学における主体と対象
との関わりの研究の成果など,さらに根源的な主体と対象の関わりの検討をも踏まえた上で,様々なフェティシ
ズム的現象を捉えてみたい気もする。
いずれにせよ,我々自身は,「フェティシズム研究」という一種のフェティッシュと,三年間の契約(奴隷契約?)
を結んでしまったのである。(主人?の)フェティッシュが,今後どのような力を発揮してくれるか,楽しみである。
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