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報告書 | 紀要 | 所報 | (第四五号 1999) |
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前川和也 | 冨谷至 | 勝村哲也 | 木島史雄 | 横山俊夫 | 森本淳生 |
人文科学研究所所報「人文」第四五号 1999年3月31日発行 | |
夏期講座(1998年度) |
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『百万塔陀羅尼』の語るところ |
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――再説 歴史家の視角と作家の視点―― |
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勝村 哲也 |
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副題を「再説 歴史家の視角と作家の視点」といたしましたのは,何年か前の開所講演でお話したのと,話の内容は異なりますが,同じ論法を使うという宣言であります。前の時は司馬遼太郎さんをとりあげました。今回も司馬さんというのはどうかなと思いましたが,時の人ですし,彼の直木賞作品『梟の城』の中に,どうにも気になる一節がありますので,素材にさせていただきました。その一節というのは,冒頭,伊賀忍者軍団が丸山城の織田信勝軍を闇の中で殲滅させ,信長の恨みを招くに至る有名な場面で,司馬さんが書き添えた,「そのころおい,ほそい,糸のような月が西の山の端はへ落ちた」であります。新月が夜明けに沈むという現象は,自然界ではあり得ません。文学の世界では可能ですが,映画化を決意された篠田正浩監督は,さてどう撮られるのでしょう。小説のよしあしは,作家の眼のつけどころによります。そしてココと見据えた一点の真実から自由にイマジネーションの世界に入って行きます。とんでもない大ウソが書かれても,面白ければ許されるのです。 歴史家はそうではありません。対象にある程度距離を置いて,少し冷めた眼で事態をとらえようとします。と見こう見,矯ためつ眇すがめつするのです。ときには星を探すようにです。歴史家と歴史的事実との間には,時間的空間的に,距離があるので,うまく対象に迫れても,しっかりと像をとらえられないことがあるかも知れません。つまり実像をとらえようとして虚像を把んでしまうのです。 法隆寺の百万塔陀羅尼は,銅版による印刷物で,それも輪転機を使ったのではないかと私は考えています。こう申しましても,それは突然ひらめいたのではありません。ましてや妄想ではございません。確かに通説とは異なりますし,突拍子もないと思われるのは承知していますが,三十年の間沢山の百万塔陀羅尼を見て参りまして,それが黄き蘗はだ染めの麻紙であるのに,紙の厚さはマチマチであることをノギスによって一つ一つ確かめたりしながら,観察を続けてきた結論なのです。私の記憶が呼び起す原風景には,はっきりと銅版輪転機が見えるのです。それは,曲線に接線を引くときに,漸近線を求めながら次第に曲線に近づいていく手法と同じです。決して,法線が曲線に交わるその一点を問題にしている訳ではないのです。歴史家の視角と作家の視点が異なることは,ご了解いただけたとして,問題の銅版輪転機説ですが,継っぎ紙がみを用いて印刷したこと,一経ずつ刷ったのではなく,恐らくは四経を四段に組んで印刷したこと(当然刷ってから裁断した),長大な経がないこと,紙の上端または下端に等間隔の墨跡があること,スタンプラインが認められること,そして何よりも墨のつき方,回転によって生じたと思われる版の乱れがあることなどによって,私の結論が虚像でないことを,お示ししたいと考えております。 |
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