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前川和也 | 冨谷至 | 勝村哲也 | 木島史雄 | 横山俊夫 | 森本淳生 |
人文科学研究所所報「人文」第四五号 1999年3月31日発行 | |
夏期講座(1998年度) |
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印刷文化と手稿マニュスクリ |
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――ヴァレリーにおける〈モノとしての書物〉―― |
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森本 淳生 |
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近代における書物の「モノ」としての側面を考えるとき,当然考慮に入れなければならないのは「印刷されている」という点である。一九世紀の印刷技術の革新と出版流通革命は書物を産業資本主義的な大量生産・大量流通の対象とした。書物はいわば「商品」という「モノ」になる。このような中,『詩学講義第一講』においてヴァレリーは,文学作品の制作,受容,評価を,生産,消費,価値といった経済学的な用語で考察した。生産され,流通過程にのせられて消費される作品は,まさに「モノ=商品」であり,文学作品の価値もこのような交換過程における他者からの評価によって交換価値として決定されるのである。従って制作そのものもそのような交換過程から独立したものではありえない。交換過程から独立した「芸術のための芸術」や「純粋詩」などは不可能だということをヴァレリーはよく知っていたのである。にもかかわらず,彼は文学の「精神化」を試みる。作品とは結局のところ「精神の作品」にほかならず,「精神の行為」においてのみ存在するのである。ところで,ヴァレリーの有名な創作理論に「作品の完成はありえない」というものがある。作品の「完成」とは作品の偶発的な「放棄」でしかない。制作それ自体は「完成」と無縁であるから,制作の現場としての手稿ヌ脇\誇は作品の完成がまったく顧慮されないような「書くために書く」という倒錯的なエクリチュールの場になるほかはない。ヴァレリーの『カイエ』もこのような場として理解できる。『カイエ』とは,偶然的な完成を目的とするような「外的生産」に捧げられるものではなく,純粋に自分の精神と向きあい,「生まれたての状態」にある諸観念を精神のもつ無秩序そのままに書きつける場なのである。その意味で,通常の書物が何らかの首尾一貫性をもち,常識的な作品が何らかの秩序や終結を含まざるえないのと異なり,『カイエ』はひとつの「反=作品」「反=書物」であるといえるだろう。そして手稿ヌ脇\誇が,書き手の目の前にある紙に自分の手で文字を書きつけるという自己に親密な行為によって書かれることを考えれば,手稿ヌ脇\誇とは,高度の具体性を帯びた事物という意味での「モノ」であることが分かる。手稿とはまさに「私のモノ」なのだ。すなわち,「モノ=商品」たる「書物」に対して,「モノ=手稿ヌ脇\誇」の領域が,産業資本主義時代における文学者の私的個人的領野として見出されたのである。 |
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