二〇〇二年一月一〇日から一二日まで,シンガポール国立大学で開かれた
“Conceptions of Filial Piety in Chinese Thought and History" というテーマの国際会議に出席してきた。
“Filial Piety" すなわち「孝」は,長い中国社会の伝統の中で,家族制度ひいては皇帝を頂点とする国家制度
を維持するうえでの最も重要な徳目のひとつとして,人々の行動を厳しく規制してきた。その影響は,同じ儒教文化圏に
属する日本,朝鮮,ベトナムなどに広く及んでいる。日本でもごく最近まで,「親孝行」や「親不孝」といった言葉が日常
的に使われてきたことは記憶に新しいが,今やこれらの言葉は死語に類するといっても決して過言ではなかろう。
しかし,華人社会においてはそうではない。華字紙を開けば,大抵仰々しい死亡広告を目にすることになるが,そこには
「孝子某々」「孝女某々」などという文字がずらりと列ねられている。子として「孝」でないことは,人でないのと同意の社会
なのである。そのことの意味を探るのがこの会議の目的であった。
ところで,「孝」を規定した儒教経典『孝経』の冒頭には,「身体髪膚,之を父母に受く。敢えて毀傷せざるは,
孝の始めなり」とある。この経文を拠り処として,僧侶に剃髪を求める仏教は「不孝」を教える反社会的宗教であるとの
激しい非難が加えられたことは,良く知られた中国史の一齣である。いくらでも生えてくる頭髪でさえ切ってはならず,
自分の身体を傷つけることなく土に返すことが「孝」の第一歩だとすれば,刺青やピアスなどはもってのほかと考えるのは,
どうやら凡人の浅はかな考えのようであった。会議に出席していた華人女性のほとんどは,きれいな穿耳環(ピアス)をつ
けていた。耳朶に穴を穿つことは,『孝経』の教えに従えば「不孝」ではないのか,一瞬彼女たちに問いただしたいという
思いに駆られたが,結局,その問いは呑みこんでしまった。「女子と小人とは養い難し」という孔丘先生の金言もあるし,
わが目を楽しませてくれる女性たちに,何も好きこのんでイチャモンをつけることもなかろうという,男の身勝手からでも
あった。
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