研究室で仏教書を読む日常のなかで,この一年は,悟りや修行にかんする記述を多く読んだように思う。 これまで私は仏教学を看板にかかげながらも,そういう部分を直接の研究対象とするのを避けてきた。悟りのことはその
経験のない者にはピンとこないから,ブッダの目に世界はどう映るか,修行をつづけて聖の境地に入ると,凡夫とは何が 違ってくるか,などの論題は,それがどう書いてあったところで,自分には真偽の判定不能な言辞に思え,敬して遠ざけ
てきたのだ。しかし昨年は研究の進行上,そうも言っていられなくなった。そこでわけのわからぬまま,せいぜい想像を 逞しくしてテキストを読んでみたのだが,そこから,ひとつの素朴な,あまりに素朴な疑問をおさえられなくなった。それは,
悟りについて論ずる書物を残した昔のインドや中国の人々は,わが実体験からして悟りとはこうだと述べたのか,体験は なくとも何らかの確信があったのか,それとも憧れの産物だったのか――つまり,テキスト作者の宗教体験への好奇心と,
それを読んで理解しようとする私のスタンスの問題。こんなことを書くと,何をいまさら寝ぼけたことを!と嘲笑されるだけか もしれない。あるいは,本当に悟った人は文章など書かぬもの,と諭されるかもしれない。しかし私は,文献からは何が
どこまで言えるか,この一点にこだわりたいのだ。
こんなことを気にしはじめたきっかけは,空の哲学者として有名な龍樹(ナーガールジュナ)は,大乗菩薩の聖なる十の 階位のうちの初位,つまり一番下であり,無著(アサンガ)は第三位まで到達したという伝承が,インドとチベットにあるのを
知り,かたや中国には,無著の弟で唯識思想を大成した世親(ヴァスバンドゥ)は,初位にも達しなかったという伝承がある のを知ったことだった。それまで抱いていた何となくのイメージから,直感的に,これは低すぎやしないかと思った。これで
は第四位より上は該当者ゼロになるではないか。それこそインド的な思惟だという解釈も成り立とう。ただ実践目標という 点からみた時,学派の祖師にしてこうなら,継承者や一般の修行者が辿りつける境地はどのあたりなのだろう。インド大乗
仏教で聖者ないし悟った人と思われた人間の数は,実は案外に少ないのだろうか。一方,中国では,儒の立場ではインド の大乗と同様に,聖人は稀少であり,特に中世には人は学んで聖人になれるとは思われていなかったようだが,仏教の方
では聖者と目された人はたくさんいたと記録される(詐欺師もたくさんいたが)。そして仏教の聖者は学習と修行によって 達成可能と信ぜられた。こうしたことはもとより,聖とは何かの定義や「神仙学んで得べし」の論と直結しようが,仏教理論
を云々したり,経典や祖師の著作に注釈を施した仏家の多くは,存外,聖者でなく凡俗の人なのであって,今の我々とそれ ほどは隔らないところで著作を試みたのかもしれないと邪推したりしている。
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