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人文科学研究所所報「人文」第四六号 1999年11月18日発行

人文研の思い出


日独文化会館のころ

加藤 秀俊    

 わたしが人文の助手として採用されたのは一九五三年のことだったが,当時,日本部と西洋部は東一条の旧日独文化会館のなかに所在していた。木造二階建てで設計はなかなかしゃれていたけれども,造作がわるくて床はギシギシしていた。そのうえ,終戦直後からしばらくアメリカ占領軍に接収されていたものだから,二階の会議室の壁面には,なにやら派手なペンキぬりの絵がのこっていたように記憶する。

 この建物のあちこちの研究室を転々として,それからの一六年間をすごした。できるだけ異質な人間たちが交流できるように,というので,毎年のように「部屋替え」があり,さいしょは森口兼二さん,つぎは本山幸彦さんと同室させていただいた。もともとが研究室用につくられた建物ではなかったから,各部屋ごとに規模もちがうし,設備もちがった。大部屋あり,小部屋あり,そしてちいさなくせに廊下などが入りくんでいたから,まことに複雑でおもしろかった。

 助手はふたり相部屋ときまっていたけれども,こんなわけで部屋の条件がちがっていたから,どれだけの空間をあたえられるかはわからなかった。二階の東南の角の部屋はとりわけおおきくて,ここは三人,ときには四人がわりあてられていた。どれだけの期間だったか失念したが,この大部屋に多田道太郎さん,山田稔さんと三人ごいっしょしていたこともあった。

 その大部屋から廊下をへだてて,むかいがわに「屋根裏部屋」とでもいうべきちいさな部屋がひとつだけあった。ここは元来が居室として設計されていたものではないらしく,広さは四畳半ていどだったが,ここはもの好きな所員が自由に申し出てつかうことができていたようだ。なにしろ,西むきなので,夕方になると暑いうえに天井もひくい。この部屋を使用しておられたのは,まず鶴見俊輔さん,つづいて藤岡喜愛さんだった。鶴見さんは,ときには研究室で徹夜されることもあるらしく,机のうえにキュウリのかじりかけがおいてあったりもした。藤岡さんのころはロールシャッハ・テストの素材が山積みされていた。

 藤岡さんが甲南大学に転出されたあと,わたしがこの屋根裏部屋に入居した。ちょうど電気計算機の第一号が発売されたころで,ネオン式の表示板をみながら統計処理をしたのもこの部屋であった。のち,わたしが教育学部に転出したあとの「後継者」が樺山紘一さんであったことを知った。

 人文をはなれて,これで三〇年。あの旧日独文化会館は,わたしがでてからまもなくとりこわされ,そのあとにいまの建物があるのだが,わたしにはむかしの木造の時代のイメージのほうがはるかに優美で鮮烈なのである。

(一九五三年九月〜一九六八年一月日本部助手 現在,中部大学学監)


藤岡班長、ありがとう 樺山 紘一    
思い出の塔 斎藤 清明    
人文研と私 杉本 憲司    
人文回想 高橋 利子    
書庫のこと 田中 久子    
宿直の一夜 鶴見 俊輔    
よく学びよく遊んだ助手時代 松尾 尊よし    
東方文化研究所のころ 村上 嘉實