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人文科学研究所所報「人文」第四六号 1999年11月18日発行

人文研の思い出


東方文化研究所のころ

村上 嘉實    

 東方文化(京都)研究所は,人文科学研究所の前身である。初代所長は狩野直喜先生で,そのもとに新進気鋭の研究員が居並び,なかなか敷居が高くてよりつけなかった。しかし内に入ると案外自由で,私等(当時京大文学部東洋史の学生)でも書庫に入り,万巻に及ぶ漢籍の善本を自由に手にとって見ることができた。

 各研究室は昼間でも煌煌と明りを点し,いつも多くの来訪者があった。当時は殷墟の発掘や仰韶・龍山文化の解明もあって,特に考古学に活気があった。梅原末治氏はゴツイ眼鏡を光らせて,忙しく廊下を歩いていた。その後をついだ水野清一・長廣敏雄氏は,雲崗の調査に情熱を燃やしていた。或る日の夕方私は質問があって急に考古学の研究室にゆくと,水野氏が一人調べものをしていた。私が質問すると氏は棚から本を出して読み,更に大きな本を引出して読み耽り,そのうえ二階に行って書庫から本を取りよせ,私が側に立っていることも忘れているかのようであった。私はついに答えをもらわずに帰ってきた。林巳奈夫氏から聞いた話であるが,水野さんがメトロポリタン美術館に行ったとき,館員が地下室に案内して中国の石碑を見せると,水野さんは丁寧にそれを調査し,ついでにその下の石碑も見たいと言い,次には横の石も見たいと言い,館員はへとへとになったという。

 吉川幸次郎・倉石武四郎の両氏は,北京の留学から帰ると,両人とも支那服(清朝以来のもの)を着て百万遍あたりを闊歩し,研究所で講演があるときは,墨筆を垂直に立てて筆記した。恐らく漢文で書かれたのであろう。平岡武氏は研究室に大きなカードボックスを備えて,白居易や,唐都長安の研究に夢中であった。

 正午になると狩野所長は全員を食堂(今の事務室)に集め,中国から呼びよせた料理人に作らせた中華料理で会食した。学問的な雰囲気で,さぞ話に花が咲いたことであろう。

 長い戦争が終って,今まで断絶していた日中間の学事事情が少しずつ判るようになってきた。終戦後間もないころ,中国社会科学院の一行が,敗戦日本を訪れ,この研究所にもやってきた。二階の講堂(現在文献センター閲覧室)で壇上に一行を迎え,研究員はその下に立って挨拶した。一行の団長(郭沫若氏と記憶する)が,研究員の中に梅原末治氏を見出し,つかつかと近よっていきなり梅原氏に抱きつき,肩をたたいて長い間抱擁した。それはまことに感激的なシーンであった。日中学術関係の雪解けがここに始まることをはっきりと感じた。郭沫若氏の講演は,当時進行中の文字の改革で,例えば「滅」の字は「一火」にしたいと思う,と言ったようなことであった。

 台湾の民国からも学者(李濟・董作賓氏等と記憶する)が来訪し,その高邁な学説を披露した。

 以上私の記憶を辿って述べたが,誤りがあれば正して頂きたい。

(関西学院大学名誉教授)


日独文化会館のころ 加藤 秀俊    
藤岡班長、ありがとう 樺山 紘一    
思い出の塔 斎藤 清明    
人文研と私 杉本 憲司    
人文回想 高橋 利子    
書庫のこと 田中 久子    
宿直の一夜 鶴見 俊輔    
よく学びよく遊んだ助手時代 松尾 尊よし