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人文科学研究所所報「人文」第四六号 1999年11月18日発行 | |
人文研の思い出 |
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よく学びよく遊んだ助手時代 |
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松尾 尊 |
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私は一九五三年一〇月から一九七〇年末まで一七年余人文に御厄介になった。うち一二年間は助手であった。学生時代から寒くなると鬱病状態におちいる習性はこの間も続いたが,思い出すのは楽しいことばかりである。 大学を卒業したら田舎教師になるつもりで,雑多な本を読みちらしたり,デモに加わったりでロクに専門の勉強をしなかった人間にとって,人文は大学院のようなものだった。指導教官は井上清・渡部徹の両先生であった。井上先生からは「戦略」を,渡部先生からは「戦術」をそれぞれ主として学んだ。私の学問の骨格はこの助手時代に形成された。人文は私にとっては,他家に嫁いだ娘の実家のようなものである。 助手の日常的義務は週一回の共同研究会への出席だけであった。私は仕事が忙しくなると自宅に籠り,研究会の日だけに研究所に出かけた。朝一〇時頃小会議室に入り新聞を読んでいると次第に人数がふえる。やがて桑原武夫・井上清両先生の登場となる。桑原先生は,久野収・丸山眞男氏とともに日本三大オシャベリといわれたが,井上先生もひけをとらない。たちまち両者の間に打打発止の論戦が始まり,一同聞きほれているうちに正午となる。「もう昼か,ピンポンでもやるか」でお開きとなる。当時大会議室には二台の卓球台があり,一台は全学から集る腕達者が占領していた。 |
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研究会が終ると,助手達は二階の大部屋(多田道太郎・加藤秀俊・山田稔)に集まりポーカーに興じた。やがて席は居酒屋に移る。そのうち私は多田道太郎・樋口謹一両氏から麻雀を仕込まれることになる。席主は桑原班の黒田憲治さん。橋本峰雄和尚も常連だった。このあたりが「日本映画を見る会」の幹事メンバーでもある。この会については他の場所で書いたこともあるので,ここでは繰返さない(『創造する市民』29)。 よく学びよく遊んだ助手時代は,私の生涯の幸福な一時期であるが,それを可能にしたのは,前記の有難い勤務条件であった。私は文学部に移っても,講義は週一回に限定した。他校への出講は集中講義以外は一切引受けなかった。普通の能力しかもたぬ私には,週に二回の共同研究会,もしくは講義という負担では,とうてい今日までの業績はあげることができなかったであろう。一つの研究会もしくは講義に全力を投ずる。その結果を論文に発表する。それを積重ねてようやく人並の仕事ができた 私が紛争中の文学部にあえて移った遠因の一つには,義理にからまれて二つの研究班に加わらねばならなくなったことがあげられる。育ち盛りの助手のために,最低一つの研究班に属すればよいという条件が,将来とも維持されることを期待したい。 (一九五三年一〇月〜一九七〇年一二月日本部助手・講師・助教授 現在,京都橘女子大学教授) |
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