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人文科学研究所所報「人文」第四六号 1999年11月18日発行 | |
人文研の思い出 |
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藤岡班長、ありがとう |
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樺山 紘一 |
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もう三〇年ちかくも昔の話となってしまった。そのころ,人文研には「助手共同研究班」というのがあった。ことの起こりは,たいそう複雑で,いわゆる学園紛争と関連があるが,ここでは省略しておこう。当時の助手の多くが参加した共同研究なのだが,いまから考えれば,ただ若手不満分子のためにもうけられた,離れの一室だったかもしれない。「現代における知識の意味」という標題だった。もっとも,いかにも肩に力がはいったテーマは,ほんとうはどうでもよかったのだろう。 研究班だから,班長がいた。精神人類学者の藤岡喜愛さん。助手だというのに,わたしなどよりはるかに年長。この大班長にすっかりと酔ってしまった。いちばんの後進にちかかったから,年齢だけで圧倒されたともいえるが,どうしてどうして,同僚の悪童助手たちも,ほぼおなじ事情だった。前研究所長も前々所長もふくめて。ほかにも,のちに研究所をささえる屋台骨になるべきひとたちが,ずらっと並んでいた。そのみんなが,藤岡班長にひれ伏し,いやときには駄々をこねてお叱りをうけてもいた。 それには,訳もあった。われらがボスはただ理屈をこねる人類学者にみえ,わたしたちはおおいにその理路について異論をこころみたのだが,その夫人にはいかようにも抗しがたいところがあった。夫人は小児科医だったのだ。鞍馬口通りにかまえる町医者の看板をわたしたちはしばしば叩かざるをえない。というのも,助手連中のおおくは,嬰児か幼児の父親でもあった。班長よりも早世された夫人は,ほんとうに慈眼というべき優しさで患者を検診してくださった。ただうろたえるだけの両親は,その適切なアドバイスに,心服してしたがった。 |
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聴くところによれば,研究所の先輩たちは,著名な町医者であり,偉大な思想家でもある松田道雄先生のクライアントだったそうだが,わたしたちも藤岡夫妻の顧客だったのだ。それも,小児科だけではなく,精神人類学研究上のインフォーマントとして。 研究会という名の雑話会がはねたあとは,むろん酒席にうつった。丸太町橋西詰めにあったおでん屋さんは,いまはもうなくなっているだろうか。藤岡御大が,ちょっとタイミングがずれた講評をくだすごとに,わたしたちは爆笑したり,反抗したり。あらかた時計が翌日にうつってから,河原の千鳥よろしく,鴨川沿いの堤道を三条京阪の駅まで歩いたっけ。 おじさんの悪いくせで,また昔話をしてしまった。だが,わたしはそこから大事なことを学びとった。共同研究のうちには,こうした密着した人間関係が有効に機能するものである。ただし,それは当事者がみな水平関係だと自覚,もしくは誤解しているときだけに有効なのだ。いまの人文研に,助手共同研究班があるのかどうか知らないが,この原則が適用できる場所を保存してほしいと願う。というのも,わたしはいまだに,その研究班をなけなしのわが学問にとっての母郷だと確信しているからである。 (一九六九年一二月〜一九七六年三月西洋部助手 現在,東京大学教授) |
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