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人文科学研究所所報「人文」第四六号 1999年11月18日発行

人文研の思い出


思い出の塔

斎藤 清明    

 北白川の分館の屋上へ,今春,国際シンポジウム「人文学の新時代」の際に,初めて登らせてもらった。大文字や東山の山なみが,まぢかに迫ってきて,いい眺めだった。送り火の際には素晴らしい見所になるのだろうと,往時を思ったりした。

 三十五年前に京大に入った際に下宿したのは分館の近くだったが,あの瀟洒な建物には目を見張ったものだ。これが,由緒のある大学の研究所というものなのか,と。不勉強な学生にはとても縁などありそうにもなく,卒業のころまでは敷居が高かった。なかでも,あの塔屋は,いつも仰ぎ見る日々だった。

 私は,今西錦司先生たちのサル学や山岳部などの雰囲気に憧れ,京都に来ようなもの。当時,今西さんは東一条の人文におられたのだが,あの旧ドイツ文化研究所だったという建物にも,在学中はとうとう訪ねそびれてしまった。すぐ近くの西部構内のクラブ(山岳部)ルームには入り浸っていたというのに。

 人文の先生がたにお目にかかるようになるのは,教育学部に学士入学して後のこと。ちょうど,加藤秀俊先生が人文研の所員(助手だったとは,それまで知らなかった)から助教授になって来られたばかり。まだ紛争が続いていたのだが,加藤研究室は雰囲気がよかったので,専攻を変えて入れてもらった。

 加藤さんにくっ付いて,信州へ農村調査に出かけたり,国際未来学会のアルバイトをさせてもらったりと,楽しかった。このようなのが人文の学問のやり方なのだろうかと感心したりした。

 吉田光邦先生の「日本教育史・研究」も受けた。講義室をほとんど使わずに,西陣や清水,信楽などに出かけて,伝統産業や職人さんの仕事場を案内していただいた。講義時間は土曜の一,二限目だったが,昼過ぎから夕方までも,半日がかり。まさに,現地講義だった。後に新聞記者になってからうかがうと,「あんなゴージャスな講義は,君たちだけだったよ」とのたまわれた。

 というわけで,人文に出入りするのは,“時計台詰め”の記者になってから。取材と称して,本館,分館を問わず先生がたの研究室によくお邪魔させてもらった。いつもお抹茶を入れて下さった柳田聖山先生,話がはずんでいつの間にか夜更けになっていた福永光司先生はじめ,思い出が多い。吉田班の共同研究会をのぞかせてもらったが,いつも明け方まで付き合いになったのも懐かしい。また,藤枝晃先生とは,晩年まで,入院された後も電話をいただくようになった。

 大学記者クラブにいたころの一九七九年度の文化勲章・文化功労者は人文の二人の名誉所員が受けたが,今西さんは森のようにうっそうと繁る自宅の庭で,桑原武夫先生は人文(東一条)の会議室で,それぞれ記者会見されたのが印象に残っている。また,今西さんの山行によくお供をしていたが,学生時代にうかがえなかった本館での会合にも参加した。上山春平先生の肝入りで,今西さんが自らの学問を「自然学」としてまとめるための勉強会だった。

 そのころ,「京大人文研」の執筆依頼が,東京の編集者から舞い込んだ。人文時代の梅棹忠夫研究室を描いた藤本ますみさんの「知的生産者たちの現場」がなかなかの評判で,その余波を受けたようなものだった。なんとか,私が付き合せてもらった先生がたを中心にして描いたのだが,入学したときに見上げた塔屋の印象が書かせたのかもしれない。

(毎日新聞編集委員)


日独文化会館のころ 加藤 秀俊    
藤岡班長、ありがとう 樺山 紘一    
人文研と私 杉本 憲司    
人文回想 高橋 利子    
書庫のこと 田中 久子    
宿直の一夜 鶴見 俊輔    
よく学びよく遊んだ助手時代 松尾 尊よし    
東方文化研究所のころ 村上 嘉實